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単純作業部分が自動走行モードに

仕事を 作業面から2つに分類している。

・単純作業の仕事
・創造的仕事(職人的仕事)



そもそも後者の永続的な著作権料につながる創造的仕事のみをやるのが一番良いのだが、人生には紆余曲折があるため、日常生活において障害にぶつかったときに創造的仕事が止まってしまう。愛犬の急病などの事態でも、淡々と仕事を継続できるようにここ数か月、ゲーム感覚でできる単純作業の仕事を拡大・強化してきた。

単純作業の仕事の護衛をつけて、創造的なライフワークに取り組むという組み合わせである。

単純作業の仕事は分野の陳腐化が激しく、つねに新しいモノを追いかける必要がある。だがその探索・発見の作業をパターン化することができる。そのパターン化に真剣に取り組んだ結果、いわば自動走行モードのように労力をかけなくても回るモードになってきた。



今後は単純作業の仕事で山の中腹に留まったまま、創造的な分野の仕事で高嶺を目指して進んでゆこう。

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人生100年時代 ~ 老後は無くなる

原発事故の頃はよく聞いたけど、最近は右翼文化人のカテゴリーに入ってしまい敬遠していた武田邦彦氏のラジオを最近よく聞いている。

商売上右に寄っていたとしても、この人の素朴な世界観は、あまりブレていないようでなかなか参考になる事も多い。




たとえば、ドイツ銀行がドイツ国家のGDPの何倍というデリバティブを抱えた理由を、武田氏は「ヨーロッパ人は働くことが嫌いな人種だから、目先の手数料収入を手っ取り早く稼ぐために禁断の果実を食いまくった」と説明するがわかりやすい。

うちの母親はよく「ドイツやイタリアという国が日本と違って素晴らしい国よ」なんて言ってるが、戦前のドイツやイタリアは、各国に大量に経済困窮民が移民するほど貧しく、民衆は身を粉にして働いていた。「母を訪ねて三千里」に見られるように、愛する我が子と離れて母親が遠い異国の地に出稼ぎに行くほどだったのである。

働かなくても良くなった裏には、カラクリがあるはずであり、そのカラクリに永続性がなければどこかで破綻が待っている。




ところで、日本人の寿命は、男性の場合100年前の平均寿命は40代半ばであったのだという。
それが昭和の末期になって、50台なれば子育ても完全に終わり、仕事も引退真近で人生の整理をし、55ぐらいで仕事をやめ余生を15年ほど楽しんで逝くというスタイルに変わった。

それが今は、人生100年の時代であり、50歳ぐらいで子育てやローンなどもろもろの重荷から解放されるのは変わらないが、その後の人生がヘタしたら50年間もある。しかも、年金が働かない老人を30年も支えられるわけがなく、破綻目前である。

第二の人生という概念を変えなければならないと武田邦彦氏は言う。そして、そのような時代において、「老後」という概念は無くなると言う。




私も数年前から自然とそのような考えになっている。

・やりたいことは今から始める。そして歳をとるにつれてやる事を減らしミニマムに。
・70代の後半までは少なくとも働くし、頭や身体がもてばもっと働く。
・様々な収入手段、得意分野を分散して持ち、学習・発見・拡大して行く作業を生きている限り継続する。
・何歳になれば後は貯金や配当でなどという固定観念は持たない。貨幣価値や社会保障がどう混乱するかわからない。
 貯金は貨幣だけではなく様々な形態に分際して持つ。
・高齢時に、住む場所を戦略的に考える。70代80代に辺鄙な山奥なんかで暮らしてはいけない。市営病院徒歩圏内必須。
・日本の将来をなんとかなるだろうと甘く見ない方がいい。


時間を金(きん)に換えるか、ゴミに換えるか?

時間を金(きん)に交換する事も出来るし、何にも交換しない人もいる。積極的にゴミに交換する人もいる。
短期で見ていても、時間を金(きん)に換える人と、ゴミに換える人の差はわずかである。
だが、長期で見ると確実にその差が生じ、誰の目にも明らかになる。

40代、50代、60代、歳を経るごとに、時間を金に換え続けた人と、そうでなかった人の違いは明確になる。

いくら上辺を有能な人物と装っても、3年、5年、10年と経ってみてやってる事を見ると結果が明らかになる。
大言壮語を吐いた人がその時にどうなっているか見るのはある意味で楽しみである。自分もまたそのように見られているのである。

5年前よりも良くなった、10年前よりも良くなったと誰の目にもあきらなかような時間の使い方をしなければならない。

竹馬を作れと言われて、さっさと1時間かけて竹馬を作っても良いが、半年もかけて竹でリアルな馬を作ってはいけないのである。
竹で作ったリアルな馬は自己満足の産物であり、気味が悪いゴミなのだから。

ゴミを作らないための指針となるのは、それが付加価値を生み出しているか否かである。

 たとえば、私は4年前に別荘地を憂いて外構を綺麗にしたが、そこで妻が撮った写真は、湘南のドッグショップや、フランス領レユニオン島のドッグショップはじめ、多くのショップに盗用されている(盗用されるのはその写真が価値がある証である)。ドッグウェアメーカーにリポストされたり、掲載依頼を受けた事も数知れない。インスタのフォロワーは、1000台だったのが今は2500を超えている。

 贅沢な外構だったが確実に元を取っていると言える。

「パピヨン」と「掘った奪った逃げた」 ~ 自由への渇望

「パピヨン」というフランスの実録小説は、アンリ・シャリエールと言う脱獄囚によって書かれた。
この小説を、中学2年生の時に手に取って以来、何回読み返したかわからない。

規則づくめの進学校に通っていた自分は、パピヨンのように、
退屈極まりない進学校での生活=牢獄のような生活から
脱走したいといつも思っていたのだろう。

続編である"Banco!"は20代になてロンドンの本屋で買って、はじめて英語の原文のまま読んだ。
20代になっても、心の中にパピヨンは生き続けていたのだ。

再び「パピヨン」が映画化されると言う。

この小説は、胸に蝶の刺青があるヤクザ"パピヨン"=アンリ・シャリエールによって書かれたが、正確に言うと実話ではない。
アンリ・シャリエールの生涯を表現した創作物である。

シャリエールよりも10年近く前に、フレンチ・ギアナから脱獄した英国人(元軍人)の体験談を盗用した盗作であるとも言われてる。
であっても、この小説に流れる空気は本物である。

また何十年も復讐を胸に秘めて、体制と戦い、何物にも束縛されずに生きようとするパピヨンの姿は、フランスの犯罪小説特有の世界であり、フランス人の意志のエゴと強さの表れでもある。




「掘った奪った逃げた」 これは20代後半に出会った小説だが、やはり1970年代のフランスのベストセラーであり、これはまさしく本物の実録体験記であるととも、作者アルベール・スパジアリの詩情溢れる文章にも魅了される。

スパジアリは、外人部隊兵としてフランス植民地戦争と共に生きた。それはインドシナ・アルジェリアの2つの撤退戦である。

そこでスパジアリは、元ナチスくずれや、様々な国出身の有色人種、戦争なしでは生きられない冒険者たちとともに青春を過ごした。また、彼は植民地を追われるコロン(植民地に移住したフランス人)の怒りと絶望と疎外感に、自らの人生と同じものを見出した。イタリア系フランス人であるスパジアリもまた、生まれてこの方、社会からのけ者にされて生きてきたのである。

アルジェリア戦争では、軍内の秘密結社(極右組織)OASに参加し、ドゴール暗殺計画にもかかわったが、平和が訪れると多くのOASメンバーたちが社会に戻っていった。スパジアリもまた、ニースで写真館を開き、平凡な日常に馴染んだかに見えた。彼はまた、田舎に農家の廃墟を買い、自分で改装して別荘に仕立てた。※この別荘はまだ彼の妻が使っているそうだ。

40半ばが近づき、退屈な人生に飽き飽きしたスパジアリは、平凡な日常からおさらばするための一大計画を練る。それはニースのジェネラルソシエテ銀行の貸金庫室に地下トンネルを掘って、何十億円の富を強奪し南米へ高飛びする事。




そうか、自分もまたスパジアリと同じ40代半ばとなったのだ。40代半ばとなって、自由への渇望をつよく感じる。これからは自分自身の人生を生きたいと強く思う。

これからの時代 定住・所有はリスク


定住はリスク…「アドレスホッパー」の若者たち 国内外転々、仕事も趣味もネット活用
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190421-00000009-mai-soci

デラシネの時代 ~ 五木寛之 にも書いたが、これからの時代、フワフワと漂うように生きないと辛い思いをたくさんする。




私は、就職氷河期世代であるがゆえに、上記記事のアドレスホッパーの若者のような生き方の人々の先駆者たちの中で生きてきた。

高橋君という、タイと中国を行き来して賢い生き方をしてきた友人を思い出す。何度彼に「漂流民スタイルの生活」に誘われたことだろう。彼のような生き方をすれば、別荘地で味わった嫌な経験もしなくてすんだだろう。

一方で自分の仕事はもう15年前から、完全に場所に拘束されないスタイルを貫いている。仕事に関してだけは徹底して自分は漂流民スタイルであった。自分でも驚くほど。

正直、自分はどこでも働けて暮らして行ける、犬を飼うという事を通じて、家が必要になり、別荘地にここ10年ほど縛られてしまった。

仕事優先にせず、犬への愛情に拘束された結果、日常生活で自ら不利な生き方ばかり選択してきたのである。犬ほど愛すべきものはこの世に存在しないのだからこれはしかたのない生き方だった。犬たちはそれで幸せになれたのである。そのことに後悔は無い。

だが、これからは自分自身の幸せを考えていきたい。




すでに仕事は、デラシネのスタイルなのだから、今いる犬たちの人生を幸せに全うさせれば、あとは生活を縛るものは何もなくなる。

その後の人生においては以下の事をけしてしない。もう十分に堪能したから良いのだ。

●新たに家を買う事
●モノに縛られる事(高価な車の購入など)
●一か所に縛られる結果になるあらゆる事(大型犬を飼うなど)

これからは、少々高くついても掛け捨てスタイルで生きる。いっさいの"不利な"所有はしない。
所有にまつわる気持ちの悪い人々との出会いや不快なトラブルの数々を、人生の後半でも経験するのは、学習が足らないという話になる。そんなことは人生の無駄使いである。愚かな人々(赤の他人)に心の平安を妨害されることほど生きていて不快な事は無い。




稼ぐことに主眼を置いて、稼ぐために有利な事だけを選択する。

冬は暖かい土地で過ごし、夏は北海道で過ごす、季節のいい時は山荘で生活する。
ホテルやレストラン、本屋を自分の部屋のように日常の居場所にする。
好きな時にいつでもフラッと旅に出る。旅をしながらも仕事する。




別荘地で見た老人の苦悩は働けないのに、余生が20年も30年もあることの不安・閉塞感である。高齢化した社会は、こういう人々の比率が異様に高まる時代であり、日本全体が安値投げ売りの末期のリゾートのような場所なってしまうと言う事である。そんな場所で所有や定住に縛られれば、今以上に不快な出来事に遭遇するのは目に見えている。

「住」で稼げない事を補う生き方ではなく、稼ぐことを主軸に考えて、「住」をそれに合わせて変幻自在に変えて生き方こそ必要なのだ。以前よく依頼した自動車積載輸送のお爺さんに近いオジサンがいたが、彼はつねに全国から依頼をされて、トラックを寝床にして移動しながら生活していた。そんな生き方の方が、一か所でカビてゆく生き方よりもよっぽどさわやかである。

アドレスホッパーのような生き方をしていれば、老人になっても働けないということはありえない。
定年になれば働けないのはサラリーマンのような賃金を貰うスタイルの奴隷の人生であるのだから。

漂流民には定年はないし、時代が変わってもその中に自ら生きる道を見つける事が習慣化している。
流れるように生きる事ができる漂流民はサラリーマンのような固定化された人生のスタイルや住のスタイルに縛られる必要はない。そうしたがんじがらめの生き方は、賃金奴隷的思考から抜け出せない人がすればいい話で、そうでない人が賃金奴隷の先入観で生きる事は無い。




漂流民(デラシネ)として生きる事が出来る人間は、一か所に固定されるべきではないし、どこでも暮らせるというメリットを最大限に享受しながら生きるべきなのだ。

何が起ころうと淡々と正しい努力を継続する

千鳥の漫才にこんなセリフがある。

ノブ「竹馬つくれ言われて、竹馬作らんと、竹でリアルな馬つくるんか?」
大悟「(竹でリアルな馬つくって)何がおもろいんや?」
ノブ「何もおもろない、時間を無駄にすな!」



努力というものは、正しい努力をすべきであって、正しくない努力をするとまさに「リアルな馬を竹で作る」結果になる。

人間は弱いモノだから、何かがきっかけで「リアルな馬を竹で作っている状態」に陥る事がある。

そうなった時でも「これはリアルな馬を竹で作っているな」と気づけば、正しい努力にすぐさま戻るべきである。



人生というものはいろんな邪魔が入る。どんな雑音に邪魔されようと、正しい努力を淡々と継続できいたものには必ず結果がついてくる。

気が散っても、つねに「正しい努力」に軌道修正し、淡々と努力を続けてゆこう。

「極」に生きた人 ジャック・ロンドン

ジャック・ロンドンという作家は小学校~中学校にかけて最も好きだった作家のひとりである。




ゴールドラッシュに群がった不良アメリカ人と盗まれてきた犬たち。彼らは金を求めて犬橇でユーコンの山奥を目指すが、それをオオカミの群れが取り囲む。主人公である犬が、人間の中で唯一尊敬したのが、インディアンの血を引く男。その男はどんな時もへこたれない。そして犬に対して優しく接する温かさがある。

このインディアンの男が、主人公と共に焚火の炎で毛を焦がしながらも、必死でオオカミと戦う描写がなんとも感動的だった。




のちに大阪中之島公会堂の図書館で本を読みふけっていた20代の頃、ジャック・ロンドンの「ジョンバリコーン」という自伝小説に出会い、ジャック・ロンドンがジョゼフコンラッドと同じく、船乗りから作家へと転じた人だと知った。私は、コンラッドやロンドンのように大衆の中から実力で這い上がってくる人が好きだ。

小説「ジョンバリコーン」には、ロンドンが苦学しながら大学に通う描写が出てくる。重労働の洗濯屋などをかけもちしながら、超人的な努力で知識を習得する。




現代のアフリカの悲劇にもつながるベルギーによる非人道的な植民地政策を小説で告発したジョゼフ・コンラッド同様に、ジャック・ロンドンもジャーナリスト的な要素の強い人で、英国のスラムで暮らしてルポルタージュを書いたり日露戦争を取材したりもしている。




ジャック・ロンドンは政治活動に熱心で、アメリカ共産党とも関わりがあった。この時代の空気がわかる作品としてウォーレン・ビーティーが監督した映画「レッズ」があるが、まさにああゆう人脈の中で生きていた人なのだ。

だが、ジャック・ロンドンはありがちな左寄りの文化人ではなかった。それは作品を読めばわかるが、政治的には左寄りでもロンドンは、ニーチェの超人思想のようなファシズム的な考えに内心は共鳴しており、性格的には独裁者であったと思う。

それは彼の作品、「野生の呼び声」にもっとも端的に表れている。これはハイブリッドウルフが超"犬"に進化する物語である。

自らの努力で社会のどん底から這い上がったロンドンは"個"の力の信奉者であったのだ。こうした考えは、ガブリエレ・ダンヌンツィオなど当時の文化人のもう一つの流れであった。




超人的な努力によって、地の底から名声と富を独占する作家へと這い上がったジャック・ロンドン。
小説「ジョンバリコーン」や「海の狼」は、そうした超人的な人格が道半ばで崩壊してゆく様をも描いている。

「極にあるもの」は自然界のなかで一時は隆盛を極めても、やがて堕落し崩壊して行く運命にあるのだ。それはちょうど日本刀を日常の道具として使うと、すぐに錆びて腐ってボロボロになってしまうのと似ている。

梶原一騎は、ジャック・ロンドン=児童文学というイメージがあった昭和において、漫画にジャック・ロンドンの言葉を引用している。その言葉は「凶器の美しさ」を賛美する文章である。

梶原一騎はジャック・ロンドンの中に自分と同じものを見たのだろう。




単純作業(情報収集と事務的作業)の効率化

ここ数か月(とくにここ1か月)、単純作業の仕事を徹底的に開拓しているが、やればやるほど仕事量が増えてゆく。
あと一か月もすればやる事がアップアップになって、他の事が何もできなくなるだろう。

ここで効率化をいかに図るかが、単純作業の面白味であり、歯磨きをしながらとか散歩しながらその事ばかり考えている。
単純作業の仕事は自分にとってゲームであり、スピード感があり実に楽しい。




単純作業の仕事として日々取り組んでいるものが以下の2つだ。

●情報収集
●事務的作業

新しいモノを探し出す情報収集を積極的に行えば、その情報をもとにして行う事務的作業も増える。
事務的作業は将来的には外部化したいが、当面は自分でやる事になる。
京都の大学で働いている姉が副業をしたがっていたのでバイトとして頼んでも良いだろう。

・情報収集になるだけ時間をかけないこと。
・情報の精度を上げるため、新しいアイデアを得ても1日は寝かしてすぐに行動しない事。
・事務的作業をなるだけ時間短縮を図る事、省力化すること。

いわばこれを工場の流れ作業的に行う事ができれば、倍々ゲームで何倍にも戦場を拡大できる。

単純作業の仕事は無限にあると言っても過言ではない。

生産力の巨大さによって滅びる文明

第二次大戦時、ドイツ軍は世界一優秀な兵器を作り、ドイツ兵は最強の兵士として戦った。

ドイツ軍のタイガー戦車1台に対して、5台のシャーマン戦車(米軍)や、3台のT34戦車(ソ連軍)があたり、それでもタイガー戦車が勝ったほどドイツ軍は強かった。

それでも、シャーマン戦車やT34は、雨後のタケノコのように生産される。破壊されても破壊されてもシベリアやアメリカの工場で戦車が作られて戦場に運ばれてくる。その圧倒的な物量を前に、ドイツ軍は敗れ去ったのである。




ところが、平和な世の中になってみると、ドイツの優秀な製品を作れる能力は、T34戦車を大量に作れるソ連の生産力よりも世界経済に役立った。

そして、ドイツや日本のような、生産力自体が低くても優秀な製品を作れる国は栄えたのである。




今中国は、かつてのように100均の商品を席巻したフェーズは過ぎ、ノートPCやスマートフォン、玩具、あらゆる分野で世界最高の製品を作れるレベルになっている。いわば、ドイツの優秀なタイガー戦車を、T34戦車やシャーマン戦車のように大量に生産できる状態。生産力の規模と質の両方で世界最高水準に近いレベルになってきている。

今までは原始的なモノを安く大量に作れたのに対して、今は、精度の高い製品を安く大量に作れるようになってきている。




この結果、先進国の製造業が脅かされるので貿易戦争が始まっている。

と同時に、中国それ自身が生産力の規模が大きすぎて国内メーカー同士でシェアを奪い合う競争が起こり、市場にモノが過剰に溢れ安売り競争が凄まじいことになっている。

かといって、生産量を下げると雇用や投資が大打撃を受けるので、この生産力をある程度は維持せざるを得ない。さりとて在庫は積み上がり、在庫をさばくためにさらに安売りする事になる。




今後5年間ほど、様々な分野で質の高い製品が異様に安い状況が世界経済において続くだろう。
このジレンマの行きつく先はどこにあるだろう?

中国製品が今後ますます世界の民生品を埋め尽くし世界経済の中心が中国に移るのは確実で有ろう。

だが同時に、近い将来、中国の異様に巨大な生産力によって中国自身も先進国も共倒れするのではないか?
この巨大な生産力にこたえられる需要がいつまでも世界にあるとはとても思えない。

世界の需要が「お腹いっぱい」になるポイントはかなり近くなっている。

世界経済は、そろそろ巨大な戦争(巨大な新しい需要)を必要としているのかもしれない。

映画「ウォー・ドッグス」 ~ 知識という土壌で育つ植物

昔、会計士になろうと思いアルバイトをしながら専門学校に通ったことがあった。
その内容に興味をどうしても持つことができず途中で勉強を中断した。

資格というのは、ある知識を習得する事によって資格を得て、それで食っていける飯のタネの一種である。

宅建なりなんなり、一つの知識を習得すれば、ある種の植物が育つ土壌ができ、あとは才覚という肥料を与えてやればその植物が大量の実を着ける大きな木になりもすれば、定期的に果実を実らせる小さな果樹になったりもする。




「ウォー・ドッグス」という映画がある。

これはユダヤ人の2人の青年が、米国の兵器調達の一般入札制度のホームページと、兵器購入先(世界中の兵器メーカーの電話番号)という2つの知識を活用する事で億万長者になった実話を描いている。彼らのビジネスに必要なのはパソコンと携帯だけである。

たとえ、有名な資格でなくても、私企業の各種サービスの使い方、各国の郵便制度や各種の関税、輸入・輸出手続き、各種の登録制度、各種の商品のマニュアルなど、一般的に公開されている世の中のしくみに対して知識を深める事は、それ自体が有力な資格を取る事と同じぐらい大きな武器になる事にあまり人は注目しない。

たとえば、日本人の95%ぐらいは、実は各種のマニュアルなどを精読する事ができないと思われる。英語力があっても、実際にそれを実用面で活用する事も出来ない。もちろんその理由は、そうしたことをする暇がないということもあるだろうが、暇がないからやらないうちに、マニュアルなどを読む頭脳が退化して本当にそうしたことが出来なくなってしまう。

都市先住民であるユダヤ人は、なんの利権も持たなかったゆえに、世の中の普通にアクセスできる知識全般に対して、徹底的に知識を深め活用してきた。知識こそが、食物が育つ土壌なのである。

映画「ウォー・ドッグス」はそのことを教えてくれる良い映画である。