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一発屋とそうでない成功者の違い

このブログでたびたび取り上げている島田紳助のNSCでの講義動画。

この動画は本当にすごい。




成功者というのは才能のみで成功した天才も多く、天才は脳の回路が常人と違うため、普通の人が天才の授業を受けても参考にならない事が多いのだ。

島田紳助はおそらく才能と同じぐらい、努力によってその成功が作られている人物なのだろう。彼は客観的に物事を分析できる人物であり、成功者や失敗者の違いを才能以外の面から冷静に分析することが出来るようだ。




一発屋と そうでない成功者、その違いを島田紳助は以下のように分析する。

①一発屋:たまたま持っているものが時代と正面衝突して大ヒットしただけで、何が原因でヒットが生まれたか自己分析できない。 ゆえに局面が変わればヒットを量産、再現することができない。

②そうでない成功者:自分が持つものを冷静に分析できており、同時に時代の変化も読めている。ゆえに自分の持つものをつねに時代の変化に適合させてゆく事ができる。




どんな人間も一発屋だった時代があるのではないか?少なくとも自分にはある。20代後半~30代前半の頃、今から10年以上も前の自分がそうである。

一発屋は、自分の能力がわからない。今やってることは続けられても、次どこへ向かえばいいかわからない。ただ時代が変われば自分が食えなくなると言う恐怖心だけがある。


毎日何か新しいモノを発見せよ ~ マンネリ化しない

2008年ごろ、リーマンショックの前後だったか、田舎に引っ越してすぐの頃に『田舎でも自宅で出来る仕事リスト』というものを作った。

50個ぐらいのアイデアを出しただろうか?

そのどれもが実際に自宅で出来る仕事だったが、もっとも効率の良いモノを2、3選んで実践した。




こうした新しいことを見出そうとするプロセスは新鮮だし、それが成果になると楽しい。

だが、そうしたアイデアも普遍性のあるものは生き残り、普遍性のないものは時代に埋もれてゆく。




付加価値を生む仕事には以下の2つがあるのだ。

①時代に関係なく普遍的に通用するもの
②数週間~数か月ぐらいしか効力を持たないもの




人間は①ばかり求め、重視しがちであるが、②の短期的なものを見出し追いかける作業も結構楽しいモノだ。
何よりもわずかであっても時代の波に乗っている、時代とともにすすんでいるという新鮮な感覚が得られる。

そして、そうしたスパンの短い流行りものは、つねに生み出されつねに消滅してゆく。
毎日1個、そうした分野を見出す事も可能なぐらい、世の中のニッチの中にあふれている。

これから、毎日30分をそうした流行りものを探す時間にあて、毎日1個そうしたものを発見して行く作業を行ったら、いったいどういう結果になるだろう?

①流行りものをつねに探す習慣が身につく。
②いろんな分野に対する知識がハンパ無くなる。
③時代がもたらす運気を呼び込みやすくなる。

こうした作業は、これから40代後半、50代と、ダサいオッサンになりがちな年齢になっていく自分を活性化して、つねに時代と自分をリンクし自分を古びた賞味期限切れの堅物にすることから遠ざけてくれるだろう。

流行りものは、以下のように行動や情報の早い人をウォッチしておけば容易に発見できる。

運をつかむ方法① 人の行動をウォッチする
http://bessousaisei.blog.fc2.com/blog-entry-197.html

毎日30分を流行りものを探す作業に当てよう。

敵を憎んではならない・・・その本質は「彼らに教訓を与えてはならない」

自分は思い返せば、30代半ば以前に他人とのトラブルというものをほとんど経験していない。
とくに20代半ば~30代前半は、平穏であった。いや、なにかしらのトラブルに遭遇していたのかもしれないが、ほとんどそれを気に欠ける事は無かった。

思い返せば何かしらのトラブルはあったが、ほとんどのトラブルはガラの悪い場所で暮らしたり働いている事、ガラの悪い人に遭遇した事が原因であった。20代前半までは実家の住宅街周辺で暮らしたが、そこでトラブルに遭遇した事は皆無である。




デール・カーネギーは人間関係のトラブルに遭遇した際の「敵」に対する態度を説いている。

デール・カーネギーは以下のような事を言っている。

『神(運命)が「彼ら」を裁くのであるから、あなたは何もしなくて良い。』と。

この事の本質は、彼らの何がしかの悪い面をいちいちこちらが指摘して直させてやる必要も無く、悪い面に自ら害されて、それが改善できることに気づかないまま墓穴を掘って自滅するに任せればよいという事だろう。




人と無用なトラブルを引き起こすような行動や思考は、必ずその人自身の人生を害しているはずである。

たまたま、それに遭遇して悪い影響を受けたとしても、いちいちそれに怒って、相手を諭してその部分を改善させようとする必要はない。

他人に対して、そこまでお人好しである必要はないのだ。彼らはその悪い面をこれからも背負って、自分を害しているものが何であるか気づかないまま生きてゆけば良いのである。




自分に出来る事は他人を変える事ではなく、自分自身を変える事のみである。

この事を肝に銘じる。

今後、気分が悪くなるような人に出会う事があったとしても「怒る事で彼らに教訓を与えて、彼らの人生を改善してはならない」と思うようにしよう。




日本古来の穢れの考え方で見ると、怒る事は好きでもない相手と「縁」を持つ事である。

怒る事で、自分が嫌悪感を抱くような相手と「縁」を持ってならない。



単純労働は遊び・ゲーム


「職人労働」と「単純労働」
http://bessousaisei.blog.fc2.com/blog-entry-147.html

①職人労働 ・・・ 全身全霊で取り組むべきライフワーク的な仕事
②単純労働 ・・・ 事務作業のように惰性的に継続して仕事を続ければ良い単純な仕事




30代後半の一時期は、①の職人労働を9割、単純労働を1割という時代があった。
その時代の遺産は大きいが、正直、日に10時間も職人労働を行うのは今の自分には無理である。

クララの闘病生活以降、単純労働を9割、職人労働を1割程度の配分で仕事している。

これを、単純労働の労働時間をもっと上げながら、職人労働を3割ぐらいに高めたい。

職人労働も、以前のように高みを目指さず、どこを切っても同じ金太郎飴の製造のような単純労働的なものに変えるつもりだ。

新分野を開拓せず、自分が過去に作った作品のコピーのような作品を創造して行こう。




単純労働は楽しくてたまらない。
それは快楽性のあるゲームみたいなものだ。
20代後半~30代前半という、仕事人生の黄金期に行っていたのも単純労働だ。

単純労働をいかにスムーズに、どこかで立ち止まることなく行っていくかを追求して行こう。
そのためには、ややこしい分野を避ける事も必要だ。

単純さは偉大である。

運をつかむ方法② アノマリー知識を長年かけて蓄積

三国志の諸葛孔明は天文学に精通しており・・・

こういう時は風がこう吹く こういう時は作物が豊作
こういう時は土地がぬかるんで行軍できなくなる

などアノマリーの知識を蓄積して、機に乗じて物事を推し進めたり、またはすみやかに退却を図るのが常であった。

自分も今まで生きてきて、この世の中にはいくつもの法則がある事に気づいている。

だが、思い付きで行動して、大半の法則は過ぎた後に思い出す。
アノマリーを意識して行動してみたらどうだろう?

そうした法則を意識して活用する事で労せずして益を得ることが出来る。



『活きのいい小魚になれる人とそうでない人の違い』

木村さんが負け組ドライバーにするアドバイス
●客がどういうときにタクシーを必要としているか考える
 (何時にコンサートが終わるとか調べたら客がとれる)

http://bessousaisei.blog.fc2.com/blog-category-38.html

綺麗にしておけば後は運命がどうにかしてくれる

年頃の娘さんがいる。美人でなかったとしても小奇麗にしていて、身のこなしや性格も美しければあとは運命がどうにかしてくれる。
綺麗にされているものや、綺麗にしようとする心はそれ自体が魅力的だからだ。
整形しろという話ではない。偽物の美しさではなく内面から発するような本物の美しさの話である。




自分の身の回りのモノをつねに綺麗に保っておけば運を引き寄せると言うのも同じ原理であろう。

たとえ使わない自転車でも動かない車、遊ばない玩具でも定期的に磨いて美しくしておくことだ。
交換できるパーツがあれば交換して出来る限りの状態を保っておく。

家という人間の人生のおいてもっとも重要なモノについてもそれが言える。

綺麗にして魅力を保っておきさえすれば、自然と運命が良い結果へと自然に導いてくれる。


運をつかむ方法① 人の行動をウォッチする


何も頼るものが無いド田舎でも無から生活力を得る事ができる技術がいくつかある。

①ネットでの情報収集に通じている
②特定の分野に対して知識がある(また得意分野を拡大できる学習能力もある)
③英語をはじめ外国が読める(翻訳サイト活用でも可)
④なんらかの創造的な才能がある
⑤物事の構造面を客観的に冷静に分析できる
⑥集中力と実行力がある
⑦過去に成功体験があり自信がある

こうした資質を生かしてコツコツと努力を継続すれば日々を暮らしてゆく事は出来る。



ウォッチ対象を100人リストアップせよ

だが、もっとドラスティックな成功を求めるなら『運』に巡り合う確率を増す必要がある。
上記の基本的な資質の上に『運』が転がり込めば人生はよりエキサイティングにハッピーになる。

運をつかむ方法として古典的なものは、人の行動をウォッチする事だ。
人と言っても、情報が早い人、行動が早い人など、何かに通じた人の行動をウォッチする。

もちろんリアルに会う人ではない。暇で時間を持て余してブラブラしているような人々をウォッチしてもしょうがない。
アンテナをビンビンに張って世間の事情に精通している小さな分野でもいいから第一人者・頑張っている人をウォッチする。

当然、ネットを通じてウォッチ対象の人を探す事になる。

ウォッチ対象は多ければ多いほどよく、100人ぐらいを目標に増やしてゆきたい。

いかに効率的にウォッチしていかに多くの有益な情報を吸い上げる事ができるか。
スピード勝負の面もある。





レストアの心理学 ~ 外観の復元が最初

レストア=レストレーション 。日本では主にヴィンテージカーの修復に用いられる言葉。




20代の終わりごろに、1970年代製のある英国車を伊丹市の街の不動産屋の息子の兄ちゃん(私よりも2歳ぐらい上)から譲ってもらった。その時に工具や、レストアのための書籍などもゴッソリと譲り受けた。今でもその時にもらった工具をいくつも持っている。

その英国車は、その兄ちゃんがレストアしたものだったが、その車と過ごした記憶がある意味で車趣味の原体験となり今もその原体験に憑りつかれて、再び同じ車をレストアすることを妄想し、長年かけて実行もしている。




レストアという作業は、膨大にやることがある。この作業を毎日コツコツと楽しんでやることが出来れば最高の趣味になるが、一歩間違えると、人生という時間を吸い取られて結局レストア断念という結果になる事も少なくない。




若い頃には、とにかく機関中枢部(エンジンミッション)を直すのだ。それが出来たら後はどうにでもなると思っていた。

だが今は、とにかく外装・内装の見た目をまずちゃんとさせるのだ。見た目が綺麗になれば、機関中枢部などはプロにまかせることが出来るしどうにでもなると思うようになった。




いくら動く車でもボロボロの車を見ているとテンションが下がる。だんだん「こんなスラム街のゴミ屋敷みたいな車をガレージ置きたくない」「この車と縁を切って、新車のシビックタイプRでもポンと買った方がいいや。」と思えてくる。

だが、ボディがある程度綺麗で、動いてもおかしくないほど磨き上げられた外観をした不動車はそういう心境にはならない。不動でもガレージに置いているだけで楽しく、動けばさらに最高の気分という心境になる。




映画「ベスト・キッド」でも、主人公の少年がカラテを学ぶ過程でミヤギさんにボロ車をピカピカに磨き上げる作業をやらされるシーンがある。

レストアという作業は、車の再生を通じて、それ以上のものを学ぶ良い機会である。

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まずはガスダンパーの交換。簡単なところから手を付けて成功体験を積み重ねる。



第20章 『理不尽な非難は偽装された賛美』 D・カーネギー

元気で目立つからこそ、愚衆・愚民の攻撃対象になる。



賛辞・嫉妬含みの批判など気にするな。




<<例>>
海軍士官学校で、同級生に次々に殴られる皇太子。
その原因を調べると、「『俺はむかし皇太子をぶん殴ったんだ』と将来自慢したいがために殴った」と皆が白状した。



<<私の感想>>

私が見るに、集団の一部として生きている人々というのは意外なほど多い。自分の信条などあって無きがごときで、数に媚びてコロコロと意見を変えるような人も非常に多い。「大物とのコネ」「権威」「学歴」「集団(井戸端会議)」などを笠に着て威張りたがるのもこのタイプ。ワラワラと集まって集団でしか行動できない臆病者の愚衆・愚民の非難など気にする必要なしという事だろうか?

デラシネの時代 ~ 五木寛之


『デラシネ=漂泊民』の意味。





権力争いをする両者

自民党 vs 共産党

この対立軸は、昭和の時代、公務員、教員、労働組合や学閥、科学界、土木業界などあらゆる社会の階層に存在した。
また、弱者層に対する布教では・・・・

公明党 vs 共産党

・・・・という対立軸も存在した。
主に高度成長期に大量増殖した市営団地を舞台にして、この2者は熾烈な覇権争いを繰り広げた。



両者が目指すものは共に強力な中央集権の国家

だが、そもそも共産党が定義する労働者とは、大企業(資本家)に隷属している労働者を指すのであって、それは今ではサラリーマンと呼ばれている人々である。彼らは労働組合を作る事で労働貴族化し、組合員は働かず、末端労働者を働かせて搾取するというヒエラルキー構造が出来上がる。  

だが、この末端労働者をマルクスはルンペンプロレタリアートと呼んで罵り、革命の裏切り者と規定している。その関係上、日本の共産党も長らく、正社員以下の労働者に対しては冷淡だった。

実は、自民党も共産党も、中央集権的な国家支配構造を好むという共通点を持っている。

大阪で、『維新』 vs 『自民党 & 共産党』という構図が作られるのは、 中世の『信長・キリシタン大名』 vs 『足利幕府・一向一揆』という構図と同じであろう。



中央集権国家の枠外で生きた漂泊民

上記のような政治史を見ても、またさらに古い日本の歴史を紐解いても、こうした政治のメインストリームの枠外にある人々が存在した。現代用語で漂泊民と呼んだり、現在では非正規労働者と呼んだりする。芸能や忍者、歌舞伎など、さまざまな日本文化を代表する職能が生まれてきたのも実はこうした階層からである。

私が暮らす西播磨は、辺境のため中央集権の支配が及ばず、漂泊民の歴史が多く残る土地である。たとえば、シーズンになると牡蠣を食べに行く室津は、『家船』の人々が多く寄港する港だった。こうした船を住居にして瀬戸内海で漁をして暮らす人々は中世から存在した漂泊民であり、1960年代まで日本に存在したのである。

五木寛之氏は、自ら敗戦時に大陸で棄民されるという経験をし、未だまたサンカの人々が存在した炭鉱町で育ち、「風の王国」のような漂泊民に寄り添った小説を書いている。



山で暮らし、ちょうど「風の王国」の登場するセケンシのような暮らしをする私は、この小説に深く惹かれて来たし、これからの時代は『デラシネ(漂泊民)』の意識を持って生きるべき時代だと言う五木寛之氏の言葉にも共感する。