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好機に備え、好機を逃さない

D・カーネギーは、「損失を利益に変えなさい」という積極的な姿勢を説く。

一方、最近、「項羽と劉邦」や「三国志」といった漫画を読みふけっているが、そこには『食客』や『説客』といった人々がよく出て来る。

彼らは、普段、主人に食事をタダで食べさせてもらいながら、武芸を磨いたり、論争を戦わせたりしている。有事になると、我先にと主人のために命を投げ出したり、知恵を出したりするが、普段はブラブラしているのである。

思い出すのが、昔、華僑の友達も「項羽と劉邦」や「三国志」の話をしていた。彼は、ふだんはゴロゴロしながら何か月も、あるいは何年も何もせずにネットを徘徊しているのだが、これぞという儲け話を見つけると動き出す。

好機を待ち、好機を逃がさないという生き方も世の中にはあるのである。※昨今は、この生き方の方がうまくいった時代かもしれない。

若くエネルギーが旺盛な時期は、セカセカ動いて積極的に努力する事もできようが、歳をとり以前ほどのエネルギーが無くなると、好機を待ち、好機の到来に対して準備を万端にする事が重要になる。

何を好機ととらえるかはその人の見識や度量によるし、世間一般には災難でも、その人にとっては好機という事も世の中にはままある。年老いた亀のように鼻先に獲物がやってくるのを何年間も待ち続ける根気が必要なのだ。

好機に備え、好機を逃さないように、つねに努力(物事への継続的な観察や勘を磨く事、自分の得意とする分野への精通を深める事)を継続する事である。
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「感受性」と「人々の欲しがるものを見極める能力」

島田紳助が芸人養成学校NSCで芸人の卵たちに語っている動画がyoutubeにUPされている。

ときどきその動画を見返すのだが、見るたびに発見があり奥深い。

島田紳助はこんな事を言ってる。
「俺らは、普通の人と違って、心で物事を見ないとあかんねん。」

心で物事を見るとは、要するに「感じる」「感動する」など感情で物事を受け止めるという事だ。

感動する事が出来る力というのは、ある種の才能でもあると言える。

夕焼けなどの美しい光景を見ても何も感じない人もいれば、心が高揚で満たされる人もいる。

後者のタイプは、美しさを感じ取れる「感受性」を持っている。

霊媒師が、霊感でもって霊を感じ取れる才能によって、その生業で生きる事が出来るのと同様に、芸人やアーティストのような表現者にとっての基礎的な資質は「感受性」である。

面白い芸を作るには、まず先人たちの芸の何が面白いか、自分の「感受性」のレーダーで見極める事が必要である。

そして、先人の芸を模倣しつつ、そこに自分のオリジナリティを織り込んで自分の芸を作ってゆくのである。

人にモノを売る「商才」も同様で、自分が「コレは欲しい」と思えるようなモノへの感受性が必要である。
それがなければ、人々が何を欲しがっているかわからない。

「商才」がある人々は、自分が欲しいモノを探すレーダーを用いて、人が欲しがるものを見極める才能を持っているのである。

これは料理や絵画、音楽、などありとあらゆる世の中のものについて言える事である。

自分は何の仕事に向いているかという見極めもまた、「自分が何に感動できるか?」によって決めるべきである。

自分を磨き上げたファルーク・バルサラ(フレディ・マーキュリー)

最近、姉や母親から映画「ボヘミアンラプソディー」が良かったよという話を聞いたり、嫁も見に行ってクィーンの大ファンになったりしている。
クィーンは20歳前後の頃によく聞いていて、日本語の歌詞のある『teotoriatte』や『la japonaise』なんかもよく聞いていた。

今あらためて、クィーンのライブエイドの映像を見ると、そのパワーに圧倒される。私はほとんどアルバムでしか聞いてこなかったが、ライブにこそクィーンの真価があるのだろう。

そして、フレディー・マーキュリーのエンターテイナーとしての才能にも圧倒される。

ペルシャ系インド人の地味な青年ファルーク・バルサラが、プレスリーに憧れ、エンターテイナー”フレディー・マーキュリー”へと自分をたたき上げ、死の6年前のライブエイドの時に最高潮に達する。

もちろんフレディー・マーキュリーの肉体的な表現力・運動神経などを見ても才能の塊なのだが、努力を惜しまない人だった事が、フレディー・マーキュリーの外観の変遷を見ればわかるのだ。

映画は見ていないものの、ここ数週間はフレディー・マーキュリーを再発見したような気分だ。車の中ではクィーンの3枚のベスト盤ばかり聞いている。