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自由を保持した状態を保つ事

四十歳にして惑わず

趣味車を一台欲しいなとか、外にガレージ兼仕事場(事務所)をお金かけて作ろうかなとか色々考えるが、そうした事ができる自由を保持したまま何もやらないでおこう。

過去の自分は、そうした思い付きをことごとく実行し、それに派生して起こる問題に振り回されてきた。44.5歳の自分は、もう迷いのある道を進むのは止めにしたい。

四十歳にして惑わず----である。



自由を生み続けている源泉(本業)を育てる

取り組むべきは自由を奪う事ではなく自由を拡大する事。自由を生み続けている源泉(本業)を育てる事。

それに必要なのは以下のモノのみ。
●PC1台と仕事に集中できる環境・時間
●頭脳と健康な肉体(食事・入浴・食後の映画鑑賞など基礎的な生活)
●思索に没頭できる毎日の散歩道・書籍などからの情報入力

今の仕事場をシャーロックホームズとワトソンの居心地の良い書斎のような環境にすること。
日常生活を送る家をより居心地よくする事。そこが基本だ。それが中途半端な段階で他のモノに手を出すべきではない。



合理的に生きる

何かを所有したい方向へ欲望を走らせず、旅行と外食などを通じてリフレッシュする手段を取ろう。

たとえば例を挙げれば、海が見える家に住みたいと思うなら、海が見えるホテルに好きなだけ泊まりに行こう。海の見えるレストランで週末はゆっくり食事しよう。そこを第二、第三の居場所にすればいいのだ。所有する必要はない。所有すれば理不尽な現実に翻弄される苦しみがくっついてくる。ホテルやレストランでリゾートの良い面だけ味わえばいい・・・。



天と地に吾独り 吾より始む

梶原一騎の好きな漫画をもう一度最初から最後まで読み直した。

梶原一騎は、道を志しエゴイズム剥き出しで道に殉じようとする人間(男)を描くのが好きだ。

漫画の中で宮本武蔵の言葉が引用されている。この言葉が妙に心に残っている。

『天と地に吾独り 吾より始む-----』
(大宇宙と大地の間には所詮自分のみぽつんと立つのであって自分以外に頼るものなし。ゆえに何事も自分で始めるしかない。)

月に何度もやってくるクララとのお別れ

昨晩も危篤状態(だと私たちが判断した)クララとの涙のお別れ。クララが大好きなドライブをして終わりを迎える事ができれば本望だろうとおもい夜ドライブ。その後、クララの状態が落ち着いてきたので一晩様子を見ると、クララの状態がやや戻っている。食欲も。

何度も今際の時が来るのはクララも苦しいだろう。高度な治療を続ければクララは強い犬なので末期状態でも食欲を保ちなんとか生き延びる。飼い主と過ごせる喜びもあるだろうが、徐々に悪化していく病状を末期状態まで味わう。現代の終末医療のかかえるジレンマは、動物医療についても言える。野生動物なら数か月前に1日2日の苦しみで逝っている。はたして本人にとってどちらが良いのか悪いのかわからない。世話する方も苦しい。時に夫婦で意見の違いで論争になる。

でも確かな事は、4か月の介護を経験して良かったと思う。一つの生命を最後まで支えきる事が、大人2人をしても、こんなに大変な事だとは。もっと若くして病気や障害を持ち、その状態で10年近くも生き続けている犬もいる。その飼い主の苦労たるや、わたしたちの4か月の比ではないだろう。

犬を飼う事を舐めてはいけない。軽々しく「犬を飼いたい」と思い、最後まで自分で面倒を見切れるなどと思ってはいけない。

ここまで来たのだから後悔はしないし、先はもう長くないのだからやりきるしかない。クララが苦しまずに逝く事を願いつつ、日々やるべきことをやり続けるだけだ。

またクララの介護は、私自身の死生観にも影響を与えた。過去に飼い犬の死を3度経験しているが、今回ほど元気な犬が弱っていくところを長期間に渡って刻々と眺めた経験はなかった。私自身が老後や人生の再末期をどう生きればよいのか、が見えてきた気がする。

クララの介護を通じて「残りの人生を、自分のやりたいようにやろう、自分の生きたいように生きよう。そうしないと後悔する。」と強く思うようになった。クララとの日々は、私自身にとっての「子育て」でもあるのだ・・・。

外構とロードスター

クララの介護をしながら、クララの事がひと段落付いたらなんて未来の事を色々考えているが、クララは生きる気が満々で、先生の「あともって1、2週間」という余命予想も余裕でクリアしそうだ。

昨日の朝、夢の中にクララが出てきた。私は、実家の北千里(阪急千里線の終着駅)という駅で、何やら忙しくしている。たぶん今から20年近く前の自分の設定のようだ。だが、もうすぐ出発で扉が閉じかけている電車を見ると、電車の床にクララが寝ている。わたしは、「クララ!クララ!」と叫んでクララに抱き着く。クララはニコニコしている。あわててクララを見に行くと、スヤスヤ眠っていた。正夢にならなくてよかった。

こんな状態になっても、ご飯は完食し、ボールで遊び、夜ドライブを催促するクララ。まだ当分クララと暮らす日々は続きそう。私の感覚ではあと3週間ぐらいは大丈夫そう。クリスマスまでもつか、もたないか。飼い主のエゴで、無理にこの世にクララを引き留めるつもりは無いが、クララがこの世にいたいうちは、出来る限りの事をしてやりたい。クララは私の心の中で一生生き続けるだろうから。

今日の朝は、紅葉が綺麗だったので、バンビの写真を撮った。

クララの事がひと段落したら、外構をこうしよう、寒冷気候と害虫に適応出来ず枯れぎみの庭木(オリーブとシマトネリコ)をこうしようと色々と考えている。一方、やっぱり外構の写真を撮るときに、クラシックカーっぽい車が無いと寂しい。

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屋根はいらない。またがって赤穂までひとっ走りして帰ってくるためのホットロッド的なスポーツカー。ここ数日考えていたが、仕事の絡みもあり、やはりあの車しかない。走行中の動画撮影もしたい。車遊びの友人も作りたい。そう考えるとやはりあの車しかないのだ日本では手に入りやすいし。まあ、仕事に悪影響を与えない程度にチェックして適切なものを手に入れる事にしよう。

趣味車持つ → 別荘地で過ごす時間が増える → スラム化別荘地に幻滅する
という悪循環になる可能性が高いので、趣味車は止めとこ。家の中に置けるモールトンAM18で十分。

他へ移っても、モールトンAM18ならどこへでも連れて行ける。

仕事中心に考える思考習慣

たとえば、住む家を考える時、持ち家と賃貸とを天秤にかけてみる。
持ち家の場合、賃貸よりも10年で300万得をすると考える。

これが仕事を中心に考えない思考法だ。



家を仕事中心に考えてみる。

・購入の場合、良い物件を建てたり、探したりする手間がすさまじくエネルギーを食いリスクも負う。
・賃貸だと、持ち家よりも住める地域の幅が広がり、住み替えも出来る。
・仕事のために最高の地域を選んで住むことができる。
 ※たとえば大きな図書館の近くや書店、電気街の近くなど。
・頻繁にやってくる災害に対して心配をしなくてもいい。
・補修などの費用も掛からない。
・資産価値についても心配しないでいい。
・「持ち家の最大の難点:変な人に煩わされるリスク」を容易に避けられる。
 ※変な人・・・近所の人から、自治会や管理組合の変な人まで様々。持ち家で、友人以外の訪問者は100%この手の人。

最後の「周囲に変な人が住みつくリスク」だが、持ち家の場合、自分の資産の環境を害されている点で不快度が10倍になる。

こうした様々な事は、仕事に多大な悪影響を及ぼす。
一方で、そうした悪影響を受けないで済み仕事に集中できるなら、月2万円ちょっとの出費増など許容範囲と納得できる。



趣味車について考える

「仕事を中心に考えない思考法の場合」
手ごろな値段の趣味車を買ってきて、仕事の合間にコツコツレストアして乗ろう。・・・と考える。

「仕事を中心に考える思考法の場合」
仕事を頑張って、資金に潤沢な余裕ができた時に、もし万が一、極上の個体が現れたらその時は検討しても良い。だが、仕事に悪影響を与えるなら購入しない。

そもそも「仕事の合間にコツコツレストアして乗ろう」という貧相な思考習慣自体が仕事に悪影響を与えるのではないか?と過去を振り返って思う。

全てをお金中心に考える華僑の友人は昔言っていた。「すぐに壊れる安物の車で悩んでないで、仕事頑張って、ポンとディアブロの新車を買えるぐらいまでまず登ればいいのに。」と。今思うとそれが正解だ。



染みついた「仕事中心に考えない思考習慣」

こうした事ひとつとっても、過去10年間に、「仕事中心に考えない思考習慣」が自分には染みついている。
これを完全に転換させて、「すべてを仕事中心に考える思考習慣」に転換すれば、様々なブレークスルーが起き、また煩悩を捨てたり、断捨離を行う事も容易になるだろう。

「仕事中心に考える思考習慣」に基づいた世界観を構築しよう。

そろそろ本業(ライフワーク)に戻るべき時・・・

幸せな時間の記憶 という記事を書いた日が、7/29だ。実は記事を書いた日に、クララの病気が発覚している。

クララは、あと1週間弱で、病気になってから4か月は生きた計算になる。
本来であれば、末期の場合、1か月以内に死ぬ子が大半の血管肉腫と言う病気で、胸水がたまり続けるという末期症状なのに、こんなに長期間、生きる子は珍しく先生も驚いている。

重度の病気なのに、基礎体力の強さと心の前向きさ、日々を楽しむ気持ちがありすぎて、クララはなかなかヘコたれない。飼い主の私としては、3ヶ月を過ぎたころから、「もう十分頑張ったし、2か月間はバンビと一緒に散歩も出来た。これ以上苦しい状態になる前に元気なうちに安らかな死を迎えられたら幸せだろうに。」と思っていたが、症状は着実に悪くなりつつも、クララは場面場面を乗り切って、未だに食欲を維持しボール遊びもする。こんなに長期間、週3回も胸水を毎回1リットル、週3リットルも抜かれ続けて生きている犬も他にいないだろう。

だが、さすがに先生も「私の感覚ではあと1、2週間ではないかと思っている」とのこと。自分の感覚では、クララの事だからあと1か月ぐらい頑張るのではないかと思ったりしている。以前飼った犬の死では後悔をたくさんしたが、クララに関しては飼い主として出来る100%の事をしたという自覚があるのでいつ終わりが来ても後悔はないと断言できる。

いずれにせよ、もう長くないのは確かなので、毎日クララを載せて、クララが大好きな夜ドライブに出かけ、クララだけではなく私たちも赤穂で外食したりバンビの散歩をしたり楽しんで暮らしている。







犬の世話もろもろで1年間本業(創作活動)ができないでいる。
その間に発掘した新分野の副業(あまりオツムを使わなくてもいい単純流れ作業的仕事)を拡大させて本業が停止している分を補っている。

放置している本業関連のSNSのフォロワーを見ると、半年前に10000フォロワーちょっとだったのが、15000フォロワー直前。著作権料は横ばいだが、フォロワーが増えているせいか家賃収入のように毎月確実に入ってきて減らない。キチンと活動していれば、今頃30000フォロワーは超えているかも。確実に風は吹いているのだが、大型犬の老犬を2頭も飼うという作業の重荷で本業に手を付けられないでいたのがもどかしい。

クララを病院へ連れて行くのは、先週から妻がやってくれているので、そろそろ本業に戻ってゆこうと思う。今度本業に戻ったら、2度と本業と自分を引き離すような重荷を新たに負うまい。全てを本業中心に考えて、何物にも邪魔されない鉄壁の環境を構築したい。




世の中は、どんどん内向きになると予想している。アメリカ合衆国の場合、リーマンショック以降、家で過ごす人が増えて、ディズニーなどコンテンツ提供会社が成長した。映画「マトリックス」の世界のように、人々は、より虚構の中で生きるようになる。そうした時代に食うに困らないのは、虚構を生み出せるクリエイティブな仕事だと思っている。

その虚構を生み出す仕事に従事する人間もまた、「理不尽」な現実に翻弄されない、閉ざされた虚構の世界に生きねばならない。

理不尽を気に病むかわりに「世の中は理不尽なものである」と考える

「甘やかされる」の意味

妻との会話シリーズ・・・・

・私は、子供の時にいろんな玩具などに憧れたが、親に望みのものを買ってもらった記憶がほとんどない。
・妻は、子供の頃から現金を渡されていたので、望みのものを自分で買いに行っていた。

これだけ聞くと、妻は甘やかされて育った子供の用に思うが、圧倒的に私の方が甘やかされていたと思う。

「甘やかされる」という事の意味は、飼い犬が飼い主を信頼するように、『親は自分を裏切らない』と思い込むような環境で育つ事ではないか?

たとえば、親が子供に「誕生日にはファミコンを買ってあげる。」と言って、誕生日にファミコンを買ってあげないのが「甘やかされない」という事ではないか?
妻は、子供時代に、このような親の裏切りを数限りなく経験した結果、「世の中は理不尽なもの」という現実を叩きこまれたのだ。

妻のこのような現実感は、彼女が営業マンとして優秀であった事と無関係ではあるまい。


「世の中は理不尽なものである」とわかっている人間は一段上から世界を見ることができる。

「世の中に正義はある」「人は信頼できる」などと思っている人間は、甘やかされて育っているのである。

その純粋さがその人間の良さである事はたしかだが、実際には世の中は理不尽であるし、人も信頼できないものである。

「世の中は理不尽なものである」とわかっている人間は、一段上から世界を見て動くことができる「策士」になれる。

「常識が通じる世界」や「道理が理解できる人間」などを夢想したり期待してはいけないのだ。

大人になって、そうした事を多少なりとも期待していいのは、妻や夫、夫婦関係においてだけだ。

幽霊は脳の誤作動か?それとも半実態化したものなのか?

数日前、妻と赤穂までドライブした。帰りの車中で幽霊話になった。

おそらく妻は、霊媒師のような能力がある血を引いている。だが、空想の中に生きるタイプではなく、普通の人以上に現実主義者である。そんな彼女は今までたくさんの霊体験をしてきており、その話を聞くと、実話怪談などでも読めないような、とても不思議な話が多い。

「実話怪談」などは、怖さに特化しているので低級な霊が多いのだが、妻の話にはもっと上級な霊が登場する。

地縁ともつながりがあったり、彼女が見る夢の中に出て来る神社などとも関連している。夢の中の神社は実在している事が多い。そして、時間と場所を隔てて、現実とリンクしている話があり、それを聞くと脳の誤作動や、記憶を後から作っているような理由付けができない。

だが、わたしはそうした幽霊話をここに書きたいとは思わない。「プライベートな事柄」で世間に公表されたくないと幽霊は思っているフシがある。なので、「実話怪談」作家などはその「プライベートな事柄」を本にしようとしてよく祟られる。

わたしも思い返せば、彼女と暮らしていて霊体験のようなものを経験した事が何度かある。私が霊を見るのではなく、動物が霊を見ているとしか思えないような行動をとる機会が過去に何度かあった。




わがままに生きないと、人生のどこかで帳尻が狂う

母方の祖母は苦労の人だった。

祖父は「江戸っ子気質」の遊び人タイプだったが、祖母は真面目に教師として働き、財産を築き増やし、放蕩息子2名(うち一人は売れない役者)などの金食い虫にたかられながらも家族を支えた。

祖母は、茶室を作り茶道をたしなむ以外は、お金を使わず質素に暮らして、自分の息子や孫の心配ばかりしていた。

こうして自分を殺してまわりにばかり尽くしていた祖母の人生を、母は今でも悲しみ、「人間はわがままに生きないと、老いてから不満が爆発するものよ。」と私によく話す。

わたしは、かなりわがままな方ではあるが、我慢強い面もある。母は、私が子供の頃、まわりの子供がお金をもらってお菓子を買って微笑んでお菓子をほうばっているのに、わたしだけがお菓子を買わずに、涼しい顔をして「お金をためて~の玩具を買いたい」と言っていた話をしてくれた。

ちなみに、わたしの父も、仕事は真面目にやるが、しっかりと遊ぶ「遊び人」タイプである。




ドライブしながら妻と話していて、自分の記憶の中に多いのは、「喫茶店のモンブランに憧れていたけど、結局食べさせてもらえなかった」とか、「釣りのための一流の道具をたくさん集めたけど、結局、その道具で釣りをした記憶はほとんどない」とか、「高級RCカーを買ってもらったけど、大切にし過ぎてそれを走らせて遊んだ思い出はないし、結局走らせないまま飽きてしまった。」等の記憶が多い。

「楽しみ」と「禁欲」を目の前に置かれた時、不必要に「禁欲・我慢」を選ぶことが多い。自分では「楽しみ」の極大化を図るために「禁欲・我慢」をあえて選ぶパターンが多いが、結局純粋に何かを楽しんではいない。こうした面に、母方の祖母の血が流れているのかもしれない。




「わがままに生きないと、人生のどこかで帳尻が狂う、人生のどこかで我慢が爆発する。」
母のこの言葉は、しっかり覚えておこう。



仕事以外の趣味で唯一楽しかった経験

人生の中で、本当に楽しいと思えた事がたしかにあった。2007年~2008年ごろに、わたしは明石に住み、ある英国製スポーツカーを所有しており、その車の状態は抜群に良くいつ乗っても壊れなかった。毎週乗って神戸~大阪の町中を走るのがとても楽しかった。イングリッシュゴールデンの介護やその死を体験して悲しみにくれて、湿気の多い別荘地はそのような車を所有する環境として最悪だったこともあり、情熱を完全になくして手放してしまったが、たしかにあの車を所有していた時は楽しかった。

人生で唯一の、仕事以外で心底楽しんだ経験かもしれない。

精神世界を乱さない生活習慣

犬の介護をしていると、時間と体力を(ついでにお金もたっぷり)奪われるが、永遠にそれが続くわけではないので、分別を学ぶ良い機会だ。

交通事故・脳梗塞 → 一生半身不随で家族に迷惑 、 不摂生 → 一生病院通い....等々、小さな過ちで一生重荷を負うような事が人生にはある。若い時は体力とバイタリティで乗り切れても、中年・老年になってそうした災難に襲われると、取り返しがつかない。

そうした様々な過ちの可能性をできるだけ小さくするために、重荷を増やすような選択肢をなるだけ除外して、人生における行動をミニマムにしてゆく事が必要だ。




私の場合、仕事に関しては、場所も選ばず、PC一台あればどこでも働ける。しかも仕事に向かう時が最大の楽しみでもある。

最大の楽しみを追求しながら、その楽しみを自らの思慮の浅さで奪わないような環境を、クララの介護をしながら考え、作ってゆきたい。

単に、モノや趣味などを整理して、新しい事(新しい犬を飼ったり、趣味車を新たに購入するなど)をしないだけではなく、精神面でも世界観を自分の都合の良い様に狭める事も必要だ。

宮崎駿はTVを見ないし、ネットをしないし、ツイッターを見た事もないそうだ。仕事で何かを為そうと思えば、自ら視界を狭める事も必要なのだ。自分の精神世界を乱さない生活習慣を作っているのだろう。

再び・・・自分の「物語」を紡ぐとき

余命宣告の3ヶ月を経過したクララは、不自由ながらも、余生とも言うべき安定した日常生活を送っている。
妻と相談し、週3回の通院は妻とクララの2人旅で行ってくれることになった。クララが死ぬときはどうしても一緒に居たいようだ。

私は、3か月ぶりに自分の生活に戻ることが出来た。
思えば、クララが元気だったころは暴力的に元気なクララの世話、クララがバンビに突進してバンビが靭帯を痛めバンビの通院、そして今、クララの介護と・・・最初から最後まで手間のかかる『娘』である。バンビと家で留守番していると、バンビは大人しくほとんど手間がかからない。

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今ふと思うと、10年余りの間、私はバンビとクララの2匹の犬が紡ぎだす「物語」のために生きていたのかなと思う。それは、子供を育てる親が、子供の「物語」を生きているのと同じだろう。

私の「子育て」は終わろうとしており、今再び、自分の「物語」に戻りつつあるのだ。




それ以前の私はどんな「物語」を生きていたのだろう?

20代半ば~30代初頭、その時代の私は「自活」するための闘いと野心の日々だった。

そうした野心の日々の中で、さまざまな人々との出会いもあった。2000年頃のバイト先での眼光鋭い「老バブル紳士」との出会い、2003年後には派遣先での華僑の「山師」との出会い、そうした人々と出会い働く中で、就職とは違う方法で、社会の中にむりやり自分の居場所をこじ開けて行った。




今再び、野心的な日々(本格的なビジネス)に戻りたいと言う内的な欲求が膨らんでいる。

野心的に働いている時ほどの快楽を、他の何物からも得られないからだ。

過去から学んだ教訓もある。

・ 魅力的なモノに心を奪われない事。
  ※具体的には、不動産・趣味車などに手を出さない事。

・ 別荘地と言った「場所」に固執しない事。
  ※別荘地で暮らしていても、魅力的な近隣の町のカフェや図書館などに第2、第3の居場所を見つける。

・ 赤の他人の行動に、心を乱されない事。 
  ※見ない、近寄らない、関わらない。

・ その他あらゆる、自分の「物語」を奪う事物を遠ざけて、私の野心的な「物語」=仕事に集中できる環境を作る事。

・ 奇抜な事ではなく、清潔な部屋、気持ちのいい朝、上質な食事、心地よい昼寝、贅沢な入浴、食後の映画、週末の旅行といった、「人間らしい贅沢さ」を自分に日々与える努力をする事。

・ たとえそれが魅力的だと思っても、40代半ばからの人生において「人間らしい贅沢な日常」を奪うような新たな重荷はけして背負わない。(放っておいても、老いという「重荷」がやってくる。)

・ 自由であることに最大限の価値を置く。自由とは選択肢がたくさんあるが、その選択肢を行使しない状態。選択肢を行使すれば自由が無くなる。 
 ※自宅のカーポートに空きがあっても、車を入れない状態が「自由」。車を一台入れると、「自由」はなくなる。
  ↓↓↓↓
niwa.jpg

・ すくなくとも私自身は今いる犬たち以外の犬を2度と飼わない。年齢的にも体力的にも限界。