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メルヘンチックな生活を守る事

10月の夜をあいかわらずバンビと散歩している。

クララは、ほんの数週間前までなんとか一緒に散歩をすることが出ていたのだが、今はバンビの散歩中、自宅のベッドの上で妻とボール遊びをして静かに過ごしている。

数週間前、なんとか歩くことが出来たクララを連れて、地元の野原を散歩したとき、草むらにカエルがいた。
クララは、自分が不自由な身体であることも忘れて、カエルに夢中になっていた。重い病気の最中にあっても、彼女にとって世界はキラキラと美しく煌めき、神秘と魅惑とスリルで満ちているのだ。

私はと言えば、40代も半ばになり、500年生きた吸血鬼のように色々な事に無感動になってきたと感じる事が多いが、犬たちと暮らす喜びは少年の頃と変わらない。

散歩をしながら、犬の目を通じて世界を見れば、街灯に照らされた路地の一角は物語を紡ぎだす一シーンとなり、夕暮れの町の香り、人々のざわめき、夜の木々の揺らめき、ギラギラとまぶしく光る月など、なにげない町が魔法で満ちてくる。

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そして、犬たちと暮らす山荘もまたおとぎ国の世界である。アイアンゲートで喧騒と荒廃の外界と遮断されたわたしたちの生活は、通勤とも、政治とも、近所のシガラミとも、別荘地の内紛とも無縁のおとぎの国であり、トイプーのつっくんなど騒がしく可愛い登場人物とたわむれながら気ままな日々を送っている。




クライヴ・バーカーの小説「ヴィーブワールド」の中には、絨毯に隠された楽園・綺想郷(フーガ)が登場するが、わたしの山荘もアイアンゲートによって外界と遮断された綺想郷であろう。

アイアンゲートの外の世界がどんなに荒れようと関係ない。

アイアンゲートの中の"メルヘンチックな生活を守る事"、それが今までやってきたことだし、これからもやってゆきたい事だ。

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自由である事

愛犬の「終末期看護」に時間とエネルギーを捧げる日々が続いているが、元気な犬たちの生活を犠牲にすることも出来ないので、元気な犬たちには別途時間を作って散歩してやり、どの犬たちにも愛情を注いで後悔の無い様に世話している。犬に限らず、何かを愛しんで大切にし、最後まで責任を持って面倒を見るという事は、楽しい事ばかりではないのだ。何かを溺愛すると言う事は、「自由」が無くなる事でもある。

最近、「日本極道史~昭和編」と言う漫画を読んでいるが、犬の世話というのは、任侠道にも似たものがある。一旦その道を歩くと決めれば、どんなに辛くても最後まで貫く以外に道は無いのである。その道を歩むにおいて、人間の子育てのように、国からの支援などいっさいなく、犬が成人して巣立ってゆく事もない。「親」が最期まで「子」の面倒を見る。どちらかの「死」以外に出口のない「親子関係」はある種の「極道」である。

とくに超大型犬の場合、一旦その道を歩くと決めれば、最長で16年間の間、飼い主に「自由」はなくなる。犬に対する愛情が深ければ深いほど犬に与える時間は多くなる。

以前飼っていたイングリッシュゴールデンを合わせると、18歳以降、25年以上に渡って超大型犬を飼い続けてきたが、大型犬の飼育は生半可な気持ちで歩むべき道ではない事だけは確かだ。私は幸運にも、まだ若さと健康が残っているので、今いる犬たちを最後まで責任持って飼う事ができそうである。だが、今の年齢から新たに飼い始めるのはもう無理であろう。50代後半や60代前半で、35kg~45kg級の超大型犬の介護をするのは体力的に困難を極めるだろう。そうした年齢で大型犬を飼う事は、若い頃に犬を飼う以上に生き方の「自由」を奪う事になるだろう。

今いる犬たちとの残された時間を後悔の無い様に過ごし、彼らが与えてくれた幸せに対する恩返しとして、最後まで楽しみを出来得る限り与えてやる事(そうした生活を楽しみつくす事。)。そしてその後は、犬を飼うにせよ多頭飼いはせず、場所にも時間にも束縛されずに生活することになるだろう。より「自由である事」に価値を置いた生き方を選択するつもりだ。