映画「狩人の夜」 The Night of the Hunter


リーニング、リーニング、リーニング オン ジ エバーラスティング アームズ ~♪ (頼れよ 頼れ 永遠に朽ちる事の無い腕に頼れ♪)



アメリカ南部の黒人霊歌として歌われた讃美歌がこの映画のメインソングである。主人公のサイコパスの殺人鬼(演:ロバート・ミッチャム)はこの歌を歌いながら、幼い兄妹を追いかけてくる。

自分が今まで見た映画の中でベスト1を挙げよと言われれば、今は迷いなくチャールズロートンの「狩人の夜」と答えるだろう。それに、溝口健二の「雨月物語」と黒澤明の「蜘蛛巣城」、五社英雄「鬼龍院花子の生涯」、1967年度版「遥か群衆を離れて」、ロジェ・バディム「悪徳の栄え」などが続くだろう。

かつては猟場だった丘陵地のニュータウンで育った私と姉は、子供の時よく、犬を連れて近くの大病院の向かいの芝生のこんもりとした小さな丘に座って、遠くの大阪の街の夜の景色を眺めるのが好きだった。ゴーという街の音が遠くから響いてきた。わたしたちはここちよい夜風に吹かれ、街灯と月の光に照らされていた。

映画「狩人の夜」 に魅せられるのは、そうした子供時代に見た世界観がそこにあるからだろう。この映画はサスペンス映画だが、子供の目を通して世界で描いており、それが独特の世界を作り出している。



物語は子供目線と、寓話的な子守歌をBGMにして美しい白黒の映像によって進む。

映画「怒りの葡萄」や「ボニーとクライド」や「北国の帝王」などと同じく、大恐慌時代が舞台。大恐慌時代に、アメリカ中西部の子供たちが、貧困の嵐の中、親とはぐれて難民化したことを背景にしている。

カエルや野ウサギに見守られながら川を下って逃げる兄妹、たどりついた岸辺の家の中から優しい母親の子守歌が聞こえ、ポーチにつられた鳥小屋が影絵のように子供たちの目に映る。子守歌に母親の温もりを思い出した妹が「わたしたち家に帰ってきたの?」と聞く(他人の家なのだが・・・)。

その時に流れる子守歌「ハッシュ マイ リトル・ワン ハッシュ」という曲が、この映画の中で一番好きな曲である。



人を子供時代の感受性に連れ帰ってくれる魔法のような映画。

楽しすぎる夜の赤穂散歩

自宅の近くに、心躍る場所が2か所ある。

赤穂城周辺と、播磨科学高原都市である。いずれも自宅から車で30分。

前者は、お堀が魅せる夜の風景がファンタスティック、後者は、人工的な公園の中に安藤忠雄の建築が散在する無機質的な美の空間。この2か所をもっと散歩して、心をときめかせることにしようと思う。

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昨夜は、久々の夜の赤穂城周辺散歩をしたが、犬たちの喜び方が半端なくて、自分も完全に時間の感覚を忘れてしまった(完全、IT断捨離)。

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夜の赤穂駅前通りのワクワクする雰囲気に触れていると、将来は、ここに犬関連の雑貨を売る小さなお店を持ってそこの店主をしながらデスクワークができたら楽しいだろうなとかいろいろと楽しい計画をめぐらすことができた。

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かつての大阪の実家の周辺が持っていたおおらかさ、豊かさがまだ赤穂には残っている気がする。
夜のお城と、工場の明かりの織り成す風景が、まさにワンダーランドといった感じ。

イギリス・ウェールズのカーディフが姫路だとしたら、赤穂はアヴァガベニーあたりだろうが。
小ぶりだが、歴史に根差したどっしりとした風格があり、観光資源としても誇れる立派なものがある。

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本日、山荘は雪景色。昼から薪ストーブを焚いている。
今年の計画を本格的に始動してゆかねば。

心躍る場所・モノに触れる意味

20代の頃、よく一緒に遊んだデザイナーの友人がいた。
彼女は、土臭い南大阪の片田舎に住みながら、大阪のミナミで服飾デザイナーと
して働いていたが、必ず数か月に一回は夜行バスで東京に行っていた。

その話を聞いても、自分はピンとこなかった。
なぜ東京に行くんだろう?東京ってそんないいものかな?

今、田舎に住んでみてわかる。
クリエーターなど感受性の豊かな人間は「心躍る場所・モノ」
に触れていないと、心が腐ってくる。

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プリズン・ブレイクを見てると、マイケル・スコフィールドという主人公について・・・
「彼は、一つの事に触れると、それを発想点にして想像力を膨らませ・・・
 奥の奥まで見通してしまう。このような思考を普通の人がしたら
 精神を病んでしまう。」と女医が分析する場面がある。

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クリエーターは、1の事を100とか1000に膨らませることが出来る人間だ。
犬の顔を見ても、普通の人は目が真ん丸で可愛いねで済むところを、
芸術家なら皮膚の凹凸にギリシャ彫像のような優美なラインを見出すかも
しれない。とにかく連想力が膨らめば膨らむほど、良い作品になる。

そのような思考の人間は、良いモノを見たり良い場所に行ったりすると、感動がすごい。
心が躍って、その後何日・何週間かは夢見心地のような気分になる。
(反対に醜いものを見たときのそこから負のイメージを膨らませることによる精神的ダメージもすごい。)

そういえば実家にいたころ、自分は近所の豪邸を見て回るのが好きだった。
自分の家は小綺麗だったが、ハウスメーカーの企画商品で本物ではなかった。
何百軒もある家の中で2、3軒、自分が本物と認める家があり、その家の前を
通ると、心が恍惚とした気分になり、ワーグナーやマーラーの音楽が心に
響いてきた。

それが日常だった。何も無い誰にも評価されなかった若い頃は、
そうやって環境からパワーを得て自分に思い通りの未来を創造する力を与えていた。

そうして、月に1回は、自転車を走らせて171号線を走り、
東灘の高台の彫像が並ぶ屋敷(偶然だが妻が幼い時によく
遊びに行っていた家だという)を見に行ったり、神戸の夜の異人館
を歩いて、より爆発力のある刺激に触れたりもした。

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そんな体験をできる場所が、今、自分が住んでる場所にあるかと言うと無い。
これでは心に潤いがなくなり乾いてしまう。多くの人々が田舎に住みたくない、
都会に住みたがる意味はこれである。

だからこそ、自分は田舎でもそこらでは見ないような庭を作りたかったし、
ちょっと見ないような趣味車を置いたり、昭和時代に、当時は自動車の新車
ほどの値段がした戦車の高級ラジコンを書斎に置いたりしているのだ。
これは心躍るもので心を潤したいという無意識的な衝動だったのだろう。

ヴィスコンティが「ルートヴィッヒ」を撮影するとき、最初「すべてはオモチャに過ぎない」
という題名を考えていたという。だが、篠山紀信の写真集を見てもわかるが、
ヴィスコンティ自身の家もまたルードヴィッヒのように趣味性の強い家(=オモチャ)なのである。



ルードヴィッヒ2世のような芸術家の心を持つ王は、愛するワーグナーの世界を
ババリアの田舎に展開し、夜、雪山を照らす月を眺めに灯をかかげた馬車を
走らせなけばならなかった。ルードヴィッヒ2世の心がそれを求めていたのである。
ルードヴィッヒ2世が夜を好んだのは、醜いものが見えなくなるからだろう。
その暗闇の部分を彼自身の想像力で埋めることができた。

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これからは意識して、心躍る場所・モノに触れることをしよう。

今あるものを磨き切れているか? ② 自分の領分内での継続が不労所得を生む

「今あるものを磨き切れているか?」 の続きだが、ビジネス編として書きたい。

仕事において、新しい分野を開拓するよりも今やっていることを磨くのが何よりも大事だ。
(企業を見ても、多角化・新分野開拓で本業を疎かにして倒産する企業が多い一方、老舗企業は頑なに本業を継続することで長く生きながらえる。)

本当は、素振りのたびにより良い素振りをイメージする継続がベストだけれど、単に惰性で継続するだけでも効果が大きい。
嫁などはこれをわかっていて、ブログなどでも田舎暮らしをはじめた10年以上前から途切れなく日記をつけ続けていて、SNSへと引き継がれた読者・フォロワーもかなりの数に及ぶ。
生活に浮き沈みあり、仲違いし陰湿な嫌がらせをする人などもおり、信じていた別荘地に裏切られた体験をしたりする中でも、けしてブログを投げ出さずに頑なに継続するのだからたいしたものであると思う。嫁は嫌な経験をしても、「10年後には大した事ではなくなってるから、すぐに忘れる。気にしない。」そうだ。私は違う、いままでは嫌なことがあればすぐに投げ出してしまっていた。

わたしの仕事内容でも、特定分野に特化した分野を何年も継続してゆくと、とても新規参入者が太刀打ちできないノウハウが蓄積されるし、最終的にはほとんど労力を駆けなくても配当を生み出す不労所得のようなものまで生じてくる。絵関連のSNSでも7年間継続しているものは放置していることが多いのに、中国人や韓国人利用者の増加も手伝ってフォロワーが10000を超えている。

また、すぐに結果が出ないものでも、毎日数分でもこつこつとやり続けることで、気づけば結構な仕事に発展していたと事もある。

ゲーテは、「本当に不幸なのは、自分が良く知っている分野の事を未完のまま放りだし、理解してもいないことをやり始めてしまう人だ。彼らが嘆くのも無理もない。」という言葉を残している。



実際、私の家系には、バブル時代に某大企業の営業マンとして長期にわたって売り上げ日本一の成績を残しまながら、理解してもいない事に憧れ、その道に進んだ結果、それまで築いた家族・業績・名声、全てを失ってしまった人がいる。

自分にもその人と同じ気まぐれさが血の中にある。良く知っている分野の事で、やれば結果がすぐに出るのがわかっているのに、未完のまま放りだしている事が、思うだけでも何個もある。普通にそれをやればいいのに、なぜか道草して遠回りして、それが自分の人生のようになってしまっている。その遠回りのサイクルは、ひょっとしたら高校時代ぐらいから始まっているのかもしれない。

お医者さんなどが大きなものを築けるのは、何十年も頑なに本業を継続できる仕事ということもあるのではないか?何であれ頑なに本業を継続できる仕事は、多少の浮き沈みがあっても、たいていは最終的に大きなものを残すのだ。

知っている分野をまっすぐ歩いて、継続してゆくのが一番効率がいいのだ。
それを忘れないようにしよう。

今あるものを磨き切れているか? ① 人生編

当たり前の事を再発見するシリーズだが・・・

今日の朝、悪夢で目覚めてふと思ったこと。
(自分の悪夢は、当時通っていた進学校の高校を卒業できない
 など周りから落ちこぼれてゆく夢が多い。)

自分は、よく嫁から、自分にないもの(マイナス面)ばかり見る
ところがある、もっと恵まれている面を見ないとダメと言われた
ことがある。たしかにそういうところがある。

若いころはそれがハングリーさ向上心の源になったこともあるが、
人生は限りあるのだから、無いものばかり見ていると精神的に
不幸になる。

そこで、今自分が持っている大切なものは何なのか?
健康、家族、仕事、犬、山荘、趣味のヴィンテージな昭和の高級戦車ラジコンの
コレクション・自転車、自分にあってまわりの人にない絵や物語を作る才能、
今43歳で老齢になるまでまだ猶予があることなどにいたるまで書き出してみた。

それらを磨き切れているだろうか?
たとえば犬の散歩でも、犬の立場に立って引き回されて
ばかりいるが、自分ももっと楽しめるのでは?など、
個々の物事をもっと磨いて良くできることを考えてみた。

最近、母親と話していてわかることは、
実家周辺が今は高級住宅街になっているため、母の友人も
ビックリするようなお金持ちが多いが、お金はあっても
母や父のように大病なく老後を送れている人は少ないという事だ。

私も子供時代から知っているある老婦人など、
旦那は退職とほぼ同時に病気で亡くなり、
自分も癌になりながらまだお金お金と金と何かをケチる
話ばかりしているそうだ。

「身体は王国である。」という言葉を思い出すが、
身体という王国(最後の砦)が蝕まれているのに、
お金ばかり追いかけて何の意味があるのだろうか?
人生の終わりはもう先に見えているのに。

自分の身体は、今あるもののもっとも基本的な土台である。
大切にして磨いてやらないと、後でもっと大きなものを失うことになる。

自分に無いものを求める事よりも、自分が
今持っているものを磨く方がはるかにリターンが大きいのだ。

過去はランゴリアーズ(怠け者を食べるお化け)が
食いつぶすにまかせて、後悔や夢などに時間を浪費せず、
今あるものを磨く作業に取り組まなければならない。



書物には、一生それで食えるだけの資産が詰まっている

マーヴィン・トケイヤーの「ユダヤ商法」をトイレで時々読んでいるが、ユダヤ人がいかに書物を大事にしたか書かれている。

情報があふれる社会で人々は忘れているが、書物には、一生それで食えるだけの資産が詰まっているのだ、とふと気づいた。

明治維新のテクノクラートの多くが、外国語に秀でているという脳力だけで大臣にまで上り詰めた人が少なくない。
外国語ができれば、海外の近代兵法書や医学書が読めた。それらの本に精通しているだけで専門家になれた。

実はこの現状は今でも変わっていない。

たとえば、六法全書に精通した人間は法律家として一生食っていける。税法に精通した人間は税理士として一生食っていける。
特定の本に精通しているだけで一生食うに困らない職業は今でも数多くある。

これはよりニッチで細分化された社会の様々なニーズ・分野においても同様なのだとはたと気づいた。

たとえば作家業だが、作家の多くがすさまじい数の蔵書をコレクションしている理由は、作家の多くが書籍のコレクションの中に未曽有の金塊が眠っている事を知っているからだろう。それを知っている人間が作家になれるのだ。

作家業に限らず、世の中の人々の興味の対象となる宝物のような資産が、過去に出版された書物・雑誌の中に眠っている。(とりわけ日本の文化の黄金時代である1980年代の書物の中に・・・)

これからは、徹底的にモノを整理する一方で、私の対象とする分野の書籍群をコツコツと安価に集めてゆこうと思っている。それらの書籍群は、適価で手に入れさえすれば必要箇所だけ撮影してデータとして所有し、手に入れたのと同じ値段で手放す事も出来る。ほとんど出費なく、宝物のような資産にアクセスできるのだ。

無から有を作り出す方法 ~ 「注目すべき人々との出会い」

田舎のような何も拠って立つものが無い場所で、小さなビジネスを起こしてそれで生活の糧を得てゆく方法についてはいろんな本に書かれていると思う。

サラリーマンとして生きる気が無かった若い頃(20歳前後のころ)は、そうした個人事業についての本を読み漁った。

その中でも記憶に残るのが「注目すべき人々との出会い」という本である。ビジネス書ではまったくなくて、G.I.グルジェフという神秘主義的な思想家(ロマノフ王朝のラスプーチンと似た、中央アジア発祥の神秘主義者)の自伝的な本だ。

グルジェフの思想を読み込むほどの探求心は無いのだが、なぜかこの本の題名に惹かれて手にとった。



~~~~~第五章 ミスターXことポゴシャン船長 あらすじ~~~~~~

若きグルジェフは、親友ポゴシャンと共に中央アジアの辺境で失われた古代の叡智を探求する旅に出る。
お金の無い彼らは、見知らぬ土地のマーケットで旅行資金を作るために商売を始める。
たちまちのうちに、そのマーケットでもっとも成功した商売人になってしまう。

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(この章は、この自伝的作品の本質的な部分ではないが、グルジェフという思想家がある種の全人であり、その才能が商売においても発揮されたことがわかる章である。)

この章では、主人公の若者2人がある種の原始的なビジネスを生み出して行く方法が克明に描かれているのだが、ここに書かれた方法は現代にもまったく通用する方法であり妙に納得させられるものがあった。また商売の楽しさが生き生きと伝わってきた。

この本は、実家から山荘に持ってきていて、いまでも時々、サウナに持ち込んで読み返している。

場所から得られる糧が乏しい田舎

いわゆるノマド的生き方(大企業を頂点とする生態系の枠外で生きる)をしようと思うと、まずその場所が何を生み出せるかを考える。

田舎に移ってきた当初、エクセルファイルに何十個と田舎でできる商売をリストアップした。
そうして考え至ったのは、田舎は場所によって得られる糧が極めて乏しいという事。

「場所から得られる糧」とは、その場所が永続的に生み出し続ける付加価値のようなもの。

たとえば明石では、妻の知り合いの淡路島に住む老人は、半分趣味で淡路島の魚市場の魚をフェリーで明石に運んで店舗に売ってその日の飲み代を稼いで、明石の飲み屋で遊んで帰るという生活をしていた。

モノが流れる場所では、そこにニッチな食い扶持が必ずある。
なので、首都圏のような壮大な物流のスペクタクルが展開されている場所では、商売感覚のある人間ならまったく食うに困らないほどのおこぼれがあるのだ。

かつて、ヨーロッパのユダヤ人は「都市の先住民」と呼ばれたが、彼らが都市に住んだのは、都市が生み出し続ける糧を収穫・狩猟するという合理的な行動によってである。大企業の雇用(封建的社会システム)の枠外生きようと思えば、都市に住むのがもっとも合理的な行動だ。

田舎ではモノも人も流れない。
しいて言うなら川や森、海が生み出す何かを活用する事。だが、それらの糧を得るには壮大な労力(多くは移動・運搬費用)と時間とインフラ投資が必要で個人には割に合わない。観光スポットもしょぼいので写真を撮ってみたところで何かに生かせるような求心力も生み出さない。

となると、何かを生み出す源泉は自分の頭脳(才能)とインターネットをリンクさせる事ぐらいしかない。
ただ、問題は、刺激の乏しい田舎という場所がその才能を育むのに極めて不向きという事である。

三枝成彰さんの本を読んでいると、不夜城のような六本木で暮らす事が芸術家にとっていかに創作意欲を掻き立てるかについて書かれている。頭脳作業は壮大な時間を使うが、六本木のように深夜でも人が忙しく働いている場所だと夜仕事していても寂しくないそうである。一方、田舎は夕方5時には真っ暗で町全体が寝る準備に入ってる。



10年、田舎に住んで仕事をしてみて得た結論は、都会の持つバイタリティ・刺激を定期的に心の中に取り入れないと仕事に悪影響を及ぼすという事だ。仕事上、都会に行くことがまったく必要なくても、定期的に都会の空気を吸わないと、仕事をする意欲が衰えてしまう。

都会で3日でたどり着けるような結論でも、田舎では数年かからないと至りつかないかもしれない。物事の進むスピード感もぜんぜん違うのだ。都会では、街並みの変化を見れば時代の移り変わりを物理的に実感できるが、田舎ではいつまでも風景が変わらない。思考もそれだけ鈍化する。

田舎暮らしの本には田舎の良い面ばかり書かれることが多いが、悪い面を認識して暮らさないといけないなと最近思っている。

散歩中のひらめき ~ ベストを目指すのではなく「よりマシな選択」を

お正月も、犬たちの散歩は変わらないペースで続けている。
以前飼っていたイングリッシュゴールデンもそうだったが、老齢になるとオス犬は臭いを嗅ぐのが楽しくてたまらなくなるようだ。

まるでシャーロックホームズのように、いろんな場所の臭いを嗅ぐ事に熱中して飼い主などお構いなし。時間が許す限り彼のやりたい様にやらせてあげるのが飼い主としてしてやれる事。

散歩中に色んな考え事をするのが楽しい。

今年になって、なんとなく心に浮かんだ事は・・・

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最善の結果ばかりを求めがちで、その通りにならないとヤケになって全てを投げ出してしまう事が子供のころから多いが・・・

最善を思い描くのもいいが、日々の行動で、「よりマシな行動・決断・手段」を追い求めてゆくようにする方が、継続性が途切れずうまく物事が運ぶのではないか?

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とひらめいた。多くの人にとっては当たり前の事かもしれないけど。

少子高齢化・格差拡大などで社会は荒んでゆくだろうから、不快な経験や思い通りにならないことは今後もっと増えてゆくと言ってよい。だとしても、その時々でよりマシに生きることができれば、そうした外的要因の悪影響は最小限に抑えられるし、むしろ悪い環境を良い方向に
転換できるかもしれない。

また外部環境が悪くても悲観しないことである。どんな環境でもチャンスはつねにあるし、実際、毎月のようにそれはやってくる。

満州から地獄の逃避行を経験して母親一人で家族を日本に連れ帰った人を2人知っているが、2人ともその後、相当な資産家になっている。局面局面で集中して良い判断をし続ける習慣が、最悪期に命を繋ぎ、成長期に最大限の結果を残せたのだろう。

新年様に作ったバナー

妻に頼まれて、新年用に作ったイラスト。

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愛犬たちがモデル。

実家の両親もこの画像を見て楽しんでくれたようだ。