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理不尽に因果は無い


以前、以下のような文章を書いた。

何の非も因果も無いのに突然巻き込まれるパターン
http://bessousaisei.blog.fc2.com/blog-entry-272.html

川崎の通り魔事件に思う事 ~ 地雷付き社会の到来
http://bessousaisei.blog.fc2.com/blog-entry-243.html




『どうして自分なのか?何の理由があるんだろう?』

 とくに日本社会はそうだが、こうした理不尽には、被害者にも原因があると無意識的に思っているところがある。被害者自身がそうやって長期間に渡って自分を責めさいなむこともある。いわゆる因果応報の考えだ。

 だが、因果応報などない。悪人でも安穏に長生きする奴はする。戦争など起これば、もっとも勇気と正義感がある人間が真っ先に死んで、無能な臆病者や裏切り者が最後まで生き延びる。

 理不尽に因果など無いのである。たとえば私の体験だが、ある初対面の人に以前親切にしたことはあったけど、その後、ウソや嫌がらせ含め長期間に渡る壮大な気持ちの悪いイヤガラセで返された。善意で対応しても理不尽が降りかかるのである。

 これが理不尽の恐ろしさなのだ。世の中にはイヤガラセでしか自己表現できないような不幸な人間がいっぱいいる。こちらは幸せに楽しく暮らしているだけなのに、相手から見たら幸せである事が「自分に喧嘩売ってる」と解釈されかねない。その結果、延々と嫌がらせが始まる。

 この事をうまく文章にした記事をライターが書いて下さった。

ホラーは「因果応報」よりも「理不尽」の方が怖い? “こわい話”を解剖する
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1908/15/news015.html

 理不尽の一番怖いところは、原因などまったくこちら側にはないのに、こちら側にも何らかの非があると、なんとなく周囲に思われてしまう事である。




 因果も無いのに人に理不尽を及ぼすなど最低のカスの所業。私がアホと呼んでる類の最低最悪のクズ人間がやること。
 だが世の中は不幸の沼地から自分の力で抜け出せないどうしようもないカスだらけ。
 彼らは生きながら、周囲に不幸をまきちらすだけの低級霊のような存在に堕ちてしまっている。

 こういうクズだらけの社会において、理不尽はそこかしこに転がっている。
 それらはある種の地雷である。

 どんな人間も一度は意図せずに地雷=理不尽を踏んでしまうのが人生である。

 たとえば前の記事書いた小野田寛郎氏は、戦争と言う巨大な理不尽のために、35年間もジャングルで過ごさなければならなくなった。理不尽な状況下でも小野田氏のようにたくましく生きなければならない。敵に媚びない。自己憐憫しない。

 そして、長い人生の中にはその理不尽に打ち勝つチャンスが必ず巡ってくると信じる事。理不尽に打ち勝つ日を喜ばしく迎えるために、今日一日を一生懸命働いて努力することが大事。
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中古車買い取り店

ちょっと見栄張りな知人が1年ほど前にドイツのスポーツ仕様の車の中古を250万で買った。
たしか、7年落ちぐらいだったと思う。

親類から安く譲ってもらってその値段なので本当はもっとするのだろう。
(スポーツ仕様の人気車のようだ。)

故障して維持できなくなるのでは?と思っていたが・・・案の定、床に水たまりができるほどの雨漏り。そして、ステアリングコラムに不具合が出てアセンブリー交換で100万の見積もりが提示されたそうだ。見栄で乗る人が多いドイツ車も10年経たずにこんな有様になるのであればハリボテだなと驚いた。

でも本当に驚いたのは、雨漏りもステアリングコラムの不具合も隠して車買取店に持ってゆくと150万で即決で買い取られたという事だ。

おそらくその車はすでに探している人がいて、少々不具合が隠されていてもそんな事はおり込み済みで、すでに買い手がついて確実に利益になる車なのだろう。不具合も納車時に見つからなければそれでいいし、たとえ見つかっても根本修理せずに適当にごまかせば問題にはならないのだろう。

元々中古車は買わない派だが、この話を聞いて、中古車など一見綺麗に見えても絶対に手を出さないと誓った。




もっとも旧車の世界はまた別である。

昔、机を並べてSEとして働いていた人がいたが、元はスーパーカーブームの時にスーパーカーの整備をしていた人だった。

入庫したランボルギーニ・ミウラに女性の霊が出たという。そのミウラは、一度事故で人が死んでいる車だった。
おそらくそのミウラは、今は何億の値がついてどこかの誰かの豪邸のガレージに収まっているに違いない。

別の機会には、バックから追突され助手席の妊婦さんが流産したロータスエスプリ(ニューシェイプ)を、オーナーが保険会社に「人が一人中で亡くなった車なので廃車にしてくれ」と頼んだが、後にその個体(再生された車両)に乗っている人にオフ会で出会ったと言う。さすがに絶句したと言う。

スティーブン・キングの「クリスティーン」のような話は、旧車業界にはいくつもあるのだろう。

いわくを背負いながらも、その魅力ゆえに時代を生き延びてゆくヴィンテージカーもそれはそれでドラマがあって良いように思えたりする。

近寄ってくる人 ~ 漂うオッサン

 昨日、妻と一緒に2匹の犬を連れて夜の公園に散歩しに行き、互いがそれぞれの一匹の犬を連れて少し離れて散歩した時、妻の背後から急にブツブツ言うオッサンが急接近してきたのだという。

 妻は慌てて車に向かって猛ダッシュ。車の乗りこむまで、オッサンに角でジ~と見られていたそうだが、車に乗り込むとオッサンは去ったそうだ。

 夜の公園と言っても、人がたくさんいて街灯があって明るい公園で、時間的にも仕事帰りのサラリーマンがウォーキングをしている時間である。

 実はこの町では似たような経験を過去にもしており、警察に通報し、オッサンがしょっ引かれた事もある。

 隣町でもそのような体験をしているし、別荘地での生活でも似たような体験を何度もしたので、今は妻一人で玄関の外に出る機会をなるだけ少なくし、妻が外に出る時は自分も一緒に外に出るようにしている。




 一概には言えないが、こうやって意味不明に近寄ってくるのは一人でブラブラして漂ってる無職っぽいオッサン(30代後半~60代)である。

 日本は治安が良く夜は女性一人でも出歩けるという都市伝説があるが、ありゃデタラメだと思う。

 人がまばらな田舎でこうなのだから、いかに変な人の比率が高いかよくわかる。




 思い返すと、自分が一人で行動するときは、とくに道を行く女性に変な警戒を抱かせないように行動や距離感には気を付ける。

 漂うオッサンたちは、まるで距離感が無いし、怪しい行動をとっても平気。男女で行動しているときに一瞬男が離れただけでサッと近寄ってくる気持ちの悪さ。

 まるでフラフラと公園を漂っていて女が一人と見ると急接近するところなど行動がゾンビである。

なんとなく矛盾があるけど 良さそうに見えるモノ・人

なんとなく違和感があるけど 良さそうに見えるものに手を出してはいけない。
これはモノもそうだし、人もそうである。

矛盾が見え隠れする物事や人に、うわべだけの言動やアピールで信頼を寄せると、たいてい後で裏切られる。

(例)
モノ:良さそうな建物だけどなぜか安い。
 人:賢そうな事を言う人で自分でも有能さをアピールしてるけど、昔ならともかく、不評が知れ渡った今になってこんな落ち目の場所に移住してきた理由がわからない。


歳を経るにつれて矛盾点・疑問点にこそ真理が隠されているように思うようになった。

うわべの心地よい言動・アピールよりも、その矛盾点にこそ注目するべきなのだ。

何の非も因果も無いのに突然巻き込まれるパターン


ゾッとするような事件がまた起こった。京アニ放火事件。

今年の5/28に私は以下のような文章を書いた。

川崎の通り魔事件に思う事 ~ 地雷付き社会の到来
http://bessousaisei.blog.fc2.com/blog-entry-243.html

かつて殺人事件と言うと、親類縁者をたどってゆけば犯人が見つかると言う事も多かった。恋愛感情や近親憎悪といった情が凶行につながる事が多かったのだ。だが、最近の殺人事件は、被害者が突然巻き込まれるケースが増えていると言う。

普通に暮らしている人が何の非も因果も無いのに突然巻き込まれるパターンだ。いわば地雷のようなものが社会の各所に点在しており、ある日、偶然その地雷を踏んでしまうケース。たまたま通りかかった、たまたまそこにいた。たまたま運が悪かったというだけでいきなり平穏な生活が地獄に突き落とされる。




相手の意図がわからない、相手と会話が通じない、会話が通じても相手からは嘘をつかれている・・・。たまたまそこにいただけでこちらは何のアプローチもしていないのに突然巻き込まれる、あるいは分け隔てなく親切に接したのに、度を超した行為を注意すると突然逆上し本性を発揮するケースなどもあるだろう。

幸運な人々は、長らく幸福で安心した日々を送っていると、こうした地雷が社会に存在しないかのように思い込んでしまう。そのような思い込みそのものが地雷を踏んでしまう罠である。地雷が好んで標的にするのは疑う事を知らない無防備な人々なのだから。

性善説で社会と接していると、『地雷』を見た目だけで判断して、普通の人と思い込んでしまう。相手の言う事を言葉通りに信じてしまう。そして『地雷』を自分の領域に招き入れる。気づいた時にはもう遅い。そんな信頼感の低い社会では、すべての他人を『地雷』と考えて、社会との間に高い塀を築いて生活しなければならない。

残念ながら、今の日本はそんな時代に突入したのだ。




これからの社会を安全に生き抜くには、何事も、そこに地雷が存在するという前提で行動するべきである。あらゆる人生計画の枝葉の全てに、『地雷』を避ける警戒心が含まれていなければ不完全なものである。

町で人に注意などをしてはいけない理由もこれで有る。注意したくなるような地雷は、目に見えているのだから静かに距離を取る事だ。

嘘を平気でついたり、自分の利益都合で態度を豹変させる人間、人を見下す事が習慣化しているような人物も気づいた時点で即、自分の領域から排除して関わらない事である。軽々しくそのような人間に話を合わせて会話を続けない事である。初動の時点ですぐに排除するのだ。

不必要に人間関係を広げてもいけないし、不必要に深入りすることも良くない、地雷に遭遇する確率を増やすだけである。リアルに人と接するビジネス(とくにサービス業)に携わる人々は本当にこれからの時代、大変である。

それでも防ぎきれないかもしれないが、少なくとも『地雷』に対して要塞のように鉄壁の防備を固めているという意思表示を見せておくことが何よりも重要である。そのことによって吸着地雷(モンスター)を忌避できるかもしれないし、自分自身も安心できる。

たとえ鉄壁の防備を固めつつも地雷にやられてしまったとしても、それに万全に備えて遭遇してしまったのであれば少なくとも「備えをしておけば良かった」という後悔はしなくて済む。