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怨霊に祟られたNHK

有能な人間を冷遇すると、その有能な人間が持つ霊力によって祟られる。
能力があるのに冷遇された人間の恨みは、怨霊となって増幅され惨禍を及ぼす。

日本古来の信仰にはそのような考えがあった。

日本史において菅原道真を冷遇した結果、怨霊と化した道真を恐れて都を遷都したくだりなどはそうである。




N国、立花孝志氏を軽くあしらったNHKは15年の年月を経て、怨霊としてパワーを増幅させた立花氏に祟られている。

私は、立花孝志氏の活動を、フォロワー数十人の時代から注目してきた。

立花孝志氏は、山本太郎氏の「れいわ新選組」などよりも、はるかに地に足のついた地道な活動をしてきたのだ。

今回の結果は必然と見える。




N国は一見維新と同様に体制の補完勢力と見られていながら、実はどの政党よりも過激な事を言ってる。

『国営放送を潰す』というのは、ある種の国家に対する反逆でありアナーキズムである。

律令制を官僚機構の中に温存する強固な中央集権国家・日本の虎の尾を踏みまくっているのだ。

ゆえに、将来、この政党は戦前の愛国カルト「大本教」のように体制によって大弾圧を受ける危険性をはらんでいる。

私は、山向こうに亀岡城(大本教の総本山)のある土地で育ったので、大本教弾圧のくだりは良く知っている。

右派だから潰されない・・・は幻想である。右派・保守派は時に左派に対する弾圧よりも徹底した弾圧を受ける。
(日本のようにローマ帝国の属州のような立ち位置となっている国はとくに・・・)




一見、体制寄りのガス抜き政党に見えるN国。

この混沌の時代に、どのように暴れてくれるのか期待である。

伊高浩昭氏 チェ・ゲバラの人生を語る

YOUTUBEで伊高浩昭氏がチェ・ゲバラの人生を語っている講演の動画を見た。

伊高浩昭氏はカストロに何度も会っている人物で、ゲバラに対しての思い入れもすごいのだが、一方でわたしはこの講演動画を見て、ベルトリッチの映画「暗殺のオペラ」を思い起こさずにはいられなかった。

それは、英雄として永遠に名を残すために自らの悲劇的な死を演出する革命家の話である。

キューバ革命の場合、ゲバラの死の演出を行ったのはゲバラ自身というよりはカストロである。




明治維新の長州における奇兵隊
ナチスにおける突撃隊隊長エルンスト・レーム

意外な事にキューバ革命におけるゲバラは上記のような極に走ったがゆえに粛清される風雲児の位置づけである。
世間一般のイメージと違い、チェ・ゲバラは平和時代(社会の構築)に適応できなった戦争主義者なのだ。
戦争継続を通して理想を追求しようとするゲバラをキューバ国内に留まらせれば、必ずや不安定要因になる。

ゲバラがコンゴ内乱にソ連(キューバ)側の軍事顧問として参加した時点で、ゲバラとコンゴ内乱の白人傭兵(冒険的な戦争屋)の違いがわからなくなる。

金のためか、理念のためかの違いなのだろうが、唯物的に見れば同じである。

良い核兵器と悪い核兵器が無いのと同じで、良い戦闘と悪い戦闘は無い。

それらは単に『凶器』である。

戦争とは、物理的に勝利するための冷徹な手段であり、ゲバラはキューバ革命を通じて戦争でしか生きられない男=人間凶器となった。




カストロは、戦争屋となったゲバラをボリビアのジャングルへと冷酷に追い詰めてゆく。
※ボリビアはキューバに比べれば先進国であり、より良い社会を実現するために戦争・内乱を選択したがる人々などほとんどいなかった。

ボリビアのジャングルでゲバラは、実態は山賊とたいして変わらないドン・キホーテのような革命ゴッコに終始する。

カストロは、ゲバラの死と同時に、彼を革命の英雄としてプロパガンダ化する。
彫像が建てられ、ポスターが貼られたくさんの歌が作られる。

「多数のために自らを犠牲にした英雄」




純粋な革命家像を語ろうとした伊高浩昭氏の意図に反して、この講演から私が読み取るのはしょせんキューバ革命もある種の王朝の交代にすぎないという事だ。

新しい王朝は、前の王朝よりもマシな社会を実現して民衆を納得させる。それだけでは支配として不十分なため様々なプロパガンダで洗脳する。新しく作られた王朝には創世神話のようなものが必要となり、その役目を命賭けで果たしたのがゲバラなのだ。

昨今、キューバではゲバラ人気は薄れ、個人主義や私有財産の追求がはびこりはじめているという。
それは裏をかえせば、少数エリートの描いた絵(プロパガンダ)に愚民化された民衆が踊らされなくなったと言う事だろう。
ゲバラの幻想によって、江戸時代のような封建主義社会に閉じ込められていた民衆が、やっと人間として自由に生きられる時代を迎えようとしている。

むかしからゲバラや毛沢東等のプロパガンダの登場人物となった革命家には胡散臭いものを感じていたが、キューバ国民が一番そう思っているかもしれない。

上岡龍太郎「芸人とやくざなんて根っこは同じ。」

上岡龍太郎

「芸人っていうのは、なんやゆうたら落ちこぼれ人間です。
社会のはみ出し者、アウトロー、いわば暴力団と一緒です。
ですから我々とヤクザは一緒。
それから芸人とヤクザが癒着したらあかんゆうけど嘘あんなの。
根が一緒だから癒着もなにも、元々同じタイプの人間やからね。」




歴史家の網野善彦は、上岡龍太郎とまったく同じことを論じた歴史家であると言えるかもしれない。

日本の民には2つのタイプがある

① 耕作に従事する百姓 (支配層の完璧な奴隷ともいえる)
② 支配層の支配の及ばないニッチで自由に生きる『悪党』

『悪党』とは非農民の意味であり、農民から見て悪い奴らなのだ。
一方で『悪党』の側も、農民のように一か所に定住して引退するまで延々と土にまみれているなんてまっぴらご免なのだ。
『悪党』は百姓がするような努力は嫌いである。『悪党』がする努力はもっと直接的に利益に結び付く努力である。

『悪党』には、商人、芸術家、船乗り、漁師、ばくち打ち、女衒といった漂白民由来の人々が含まれる。

つまり、私の父方(天橋立で起業して樺太まで遡った北前船の船主)などは『悪党』的精神の持ち主だったに違いない。
当時、海に所有者はおらず自由民が生きる世界だった。そして絵描きをして食べている私自身も『悪党』的である。




カール・マルクスなどは、この①と②を分類して、①は共産主義エリートの奴隷にしやすいが、②は支配しにくいのでゴロツキ(ルンペンプロレタリアート)と呼んで革命の敵と定義していた。共産主義は民を完璧に奴隷にするもっとも効率的なシステムである。ゆえに民の中のもっとも創造的で自由なエネルギーを持った部分を抑圧する必要があった。なぜなら②の中からこそ、時代を変えるような力が生じて来るからである。

実際、ソビエト革命などでも②は弾圧された。
一方、現在のキューバのように、経済の自由度が高まると②のタイプの人々が元気になり、一気に格差が開く。

こうした格差を、日本社会の場合、職能を差別すると言うことで①の層を納得させていた。
日本の戦前の庶民感覚においても悪党的な仕事(不動産業、金融業など・・・もっと言えば中小企業全般)は蔑まれていたと言う。




現代でも、①耕作に従事する百姓は会社本位主義における正社員となり、②もまたさまざまに時代に即した形に変化して存在している。

昔、よく話をしたバブル紳士も不動産業者だが、上岡龍太郎とまったく同じことを言っていたな。
上岡龍太郎が話したことは、実は特別な事ではなく、昭和の日本社会の普通の感覚だった。
~1970年代には実際に、芸人とヤクザの区別が難しいほど密着していた。

バブルを契機に日本社会は拝金主義になったため、職種で差別するような感情は庶民の中からは薄れていった。
①の家庭に生まれた子供でも、②に憧れる人が増えた。

しかし、闇営業をする芸人が、サラリーマン(賃金奴隷)の感覚で批判される根底には、網野善彦が指摘したような日本社会の二極的な構造があるに違いない。




山城新伍は、生前に暴力団員の娘の結婚式に出たことを記者に迫られた際に、「どんな出生であっても結婚を祝うのは人間として当然。」と言い切ったと言う。

やはり昭和の人間は立派だったなと思う。こうした人々がいた時代は、支配層と被支配層のバランスが正常だったのだ。

なぜ日本社会の空気が戦前のように息苦しくなり始めたかと言えば・・・その理由の一つは、再び①の奴隷層、つまり支配される事を喜ぶ層が幅を利かせすぎているせいだろう。一方で、1960-1980年代の日本文化に活気があったのは、敗戦による日本人の隷属的支配からの解放によって、いわゆる『悪党』的な人々が元気になった時代だったからだ。

支配が緩まり、社会が若々しく元気になった時代には、『悪党』的な人々が躍動するのである。

国家社会主義の胎動

ルキノ・ヴィスコンティの映画「地獄に堕ちた勇者ども」を三島由紀夫は気に入っていたらしい。偶然にも、この映画が作られる前年に三島は戯曲「わが友ヒットラー」を完成していた。

映画「地獄に堕ちた勇者ども」と戯曲「わが友ヒットラー」はともに、『長いナイフの夜』というナチス内部の粛清事件を描いている。




新選組もしかり、戦前の日本共産党もしかり、ナチスもしかり、組織は純化する過程で粛清という過程を経る。

初期ナチスにおいては、以下の2派が粛清の対象になった。

・シュトラッサー兄弟に代表されるナチス左派
・エルンスト・レームという人望の厚いカリスマ的人物(牧歌的右翼・民族主義者)

ナチス左派とは何かと言えば、それはソ連の社会主義に民族主義をプラスしたようなものであり、ナチス党の旗の赤色はまさに労働者の色=左派の色である。

ナチスはその初期において社会主義的な思想を内包していた。そしてその内部(とくに東部地域のナチス)には急進的な左派勢力も存在した。『長いナイフの夜』で、急進的な左派勢力は粛清されるが、崩壊にいたるまでのナチスは、社会主義的な色の濃い体制であったことはナチスが行った様々な政策を見てもわかる。




社会が疲弊し市民の生活が棄損され、富の偏在が起こってくると・・・

・民族主義
・社会主義

この2つの要素が政治において強くなることは古代ローマの寡頭制の末期を見てもわかる。
たとえばカエサルは、属州の異民族を安い労働力として使う奴隷制を規制してローマ市民に仕事(パン)を与えると約束し市民の圧倒的な支持を得た。




日本においても、右派と左派が『国家社会主義』の下に結び付くという現象が政治おいてこれから起こってゆくだろう。その胎動が昨今見られ始めたように思う。『国家社会主義』は現代的な言い方で呼ぶと『反緊縮』である。

そして、歴史は繰り返すで・・・・仮に将来において国家社会主義的な体制が確立すれば、急進的な左派と右派は役目が終わったと見なされて、シュトラッサーやレームのように粛清される事になる。

日本はふたたび、政治・経済ともにナチス前夜のような混乱期に入ろうとしている。

生産力の巨大さによって滅びる文明

第二次大戦時、ドイツ軍は世界一優秀な兵器を作り、ドイツ兵は最強の兵士として戦った。

ドイツ軍のタイガー戦車1台に対して、5台のシャーマン戦車(米軍)や、3台のT34戦車(ソ連軍)があたり、それでもタイガー戦車が勝ったほどドイツ軍は強かった。

それでも、シャーマン戦車やT34は、雨後のタケノコのように生産される。破壊されても破壊されてもシベリアやアメリカの工場で戦車が作られて戦場に運ばれてくる。その圧倒的な物量を前に、ドイツ軍は敗れ去ったのである。




ところが、平和な世の中になってみると、ドイツの優秀な製品を作れる能力は、T34戦車を大量に作れるソ連の生産力よりも世界経済に役立った。

そして、ドイツや日本のような、生産力自体が低くても優秀な製品を作れる国は栄えたのである。




今中国は、かつてのように100均の商品を席巻したフェーズは過ぎ、ノートPCやスマートフォン、玩具、あらゆる分野で世界最高の製品を作れるレベルになっている。いわば、ドイツの優秀なタイガー戦車を、T34戦車やシャーマン戦車のように大量に生産できる状態。生産力の規模と質の両方で世界最高水準に近いレベルになってきている。

今までは原始的なモノを安く大量に作れたのに対して、今は、精度の高い製品を安く大量に作れるようになってきている。




この結果、先進国の製造業が脅かされるので貿易戦争が始まっている。

と同時に、中国それ自身が生産力の規模が大きすぎて国内メーカー同士でシェアを奪い合う競争が起こり、市場にモノが過剰に溢れ安売り競争が凄まじいことになっている。

かといって、生産量を下げると雇用や投資が大打撃を受けるので、この生産力をある程度は維持せざるを得ない。さりとて在庫は積み上がり、在庫をさばくためにさらに安売りする事になる。




今後5年間ほど、様々な分野で質の高い製品が異様に安い状況が世界経済において続くだろう。
このジレンマの行きつく先はどこにあるだろう?

中国製品が今後ますます世界の民生品を埋め尽くし世界経済の中心が中国に移るのは確実で有ろう。

だが同時に、近い将来、中国の異様に巨大な生産力によって中国自身も先進国も共倒れするのではないか?
この巨大な生産力にこたえられる需要がいつまでも世界にあるとはとても思えない。

世界の需要が「お腹いっぱい」になるポイントはかなり近くなっている。

世界経済は、そろそろ巨大な戦争(巨大な新しい需要)を必要としているのかもしれない。