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そろそろ本業(ライフワーク)に戻るべき時・・・

幸せな時間の記憶 という記事を書いた日が、7/29だ。実は記事を書いた日に、クララの病気が発覚している。

クララは、あと1週間弱で、病気になってから4か月は生きた計算になる。
本来であれば、末期の場合、1か月以内に死ぬ子が大半の血管肉腫と言う病気で、胸水がたまり続けるという末期症状なのに、こんなに長期間、生きる子は珍しく先生も驚いている。

重度の病気なのに、基礎体力の強さと心の前向きさ、日々を楽しむ気持ちがありすぎて、クララはなかなかヘコたれない。飼い主の私としては、3ヶ月を過ぎたころから、「もう十分頑張ったし、2か月間はバンビと一緒に散歩も出来た。これ以上苦しい状態になる前に元気なうちに安らかな死を迎えられたら幸せだろうに。」と思っていたが、症状は着実に悪くなりつつも、クララは場面場面を乗り切って、未だに食欲を維持しボール遊びもする。こんなに長期間、週3回も胸水を毎回1リットル、週3リットルも抜かれ続けて生きている犬も他にいないだろう。

だが、さすがに先生も「私の感覚ではあと1、2週間ではないかと思っている」とのこと。自分の感覚では、クララの事だからあと1か月ぐらい頑張るのではないかと思ったりしている。以前飼った犬の死では後悔をたくさんしたが、クララに関しては飼い主として出来る100%の事をしたという自覚があるのでいつ終わりが来ても後悔はないと断言できる。

いずれにせよ、もう長くないのは確かなので、毎日クララを載せて、クララが大好きな夜ドライブに出かけ、クララだけではなく私たちも赤穂で外食したりバンビの散歩をしたり楽しんで暮らしている。







犬の世話もろもろで1年間本業(創作活動)ができないでいる。
その間に発掘した新分野の副業(あまりオツムを使わなくてもいい単純流れ作業的仕事)を拡大させて本業が停止している分を補っている。

放置している本業関連のSNSのフォロワーを見ると、半年前に10000フォロワーちょっとだったのが、15000フォロワー直前。著作権料は横ばいだが、フォロワーが増えているせいか家賃収入のように毎月確実に入ってきて減らない。キチンと活動していれば、今頃30000フォロワーは超えているかも。確実に風は吹いているのだが、大型犬の老犬を2頭も飼うという作業の重荷で本業に手を付けられないでいたのがもどかしい。

クララを病院へ連れて行くのは、先週から妻がやってくれているので、そろそろ本業に戻ってゆこうと思う。今度本業に戻ったら、2度と本業と自分を引き離すような重荷を新たに負うまい。全てを本業中心に考えて、何物にも邪魔されない鉄壁の環境を構築したい。




世の中は、どんどん内向きになると予想している。アメリカ合衆国の場合、リーマンショック以降、家で過ごす人が増えて、ディズニーなどコンテンツ提供会社が成長した。映画「マトリックス」の世界のように、人々は、より虚構の中で生きるようになる。そうした時代に食うに困らないのは、虚構を生み出せるクリエイティブな仕事だと思っている。

その虚構を生み出す仕事に従事する人間もまた、「理不尽」な現実に翻弄されない、閉ざされた虚構の世界に生きねばならない。

「物語」の力


今日の夕方散歩中に以下のような事を考えた。書き記しておこう。



人類は虚構を作り出す事で・・・の記事でサルや類人猿、クロマニョン人が作る群れは100頭程度が限界で、それ以上の群れを作るには、「虚構」が必要であるという記事を書いた。人類の中で、ホモサピエンス種のみが「虚構」を作り出す事ができたという。「虚構」によってホモサピエンス種は、数千頭、数万頭、数百万頭というすさまじい数の群れを作る事が出来た。

アフリカ・サバンナで生態系の下位にいたホモ・サピエンスは「妄想力」によって全世界を支配する種になってゆくという説をとなえた、今話題のベストセラー本「サピエンス全史」。↓↓



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明智光秀は「仏のうそをば方便と云、武士のうそをば武略と云。土民百姓はかはゆき事なり。」という言葉を残しているが・・・。
仏や武士がつく「うそ」こそが、この「虚構」なのである。

僧侶や武士といったエリート階級は「虚構」を作り出せるが、土民百姓は「虚構」を作り出す能力が無いので、僧侶や武士の奴隷になるしかないのである。
戦国時代の抜群の秀才であった明智光秀は、このような鋭い言葉を残しているのである。

この「虚構」を別の言葉に言い換えると、それは「物語」である。
「物語」を作り出せる人間だけが、100人以上の人間を感動させたり、様々な影響を与えることが出来る。

何かを創造、クリエイトする人間は、つねに「物語」というものを念頭においておかなければならない。

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「物語」が人を魅了する様子を簡単な例で以下に表現する。

例1:庭

・ホームセンターや通販で、趣味の良いガーデンアクセサリーを揃える。小奇麗だがありきたりな庭になる。
・洋風の家の雰囲気に合わせて、"イタリアのコモ湖の別荘風"などテーマを決めて素材を選び、雰囲気を作ってゆく。人はそこに「物語」を見出す。

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例2:プラモデル

・車のプラモデルを"綺麗に"製作する。人がそれを見ても「綺麗に作れましたね」で終わる。
・車に汚しを入れて、その車に"使用感"を出す。人は、その汚しに「物語」を見出す。

例3:インスタグラム

・インスタグラムに、ひたすら"清潔感の田舎の自然の風景"をアップロードする。お愛想の「いいね!」、フォローで終わる。
・一方で、"田舎で犬を育てている"などのテーマで、その場面場面、喜怒哀楽を写真でアップロードしてゆけば、そこに人は容易に「物語」を見出す。

例4:散歩

・別荘地の自然の風景の中を散歩する。最初は気持ちよくてもすぐに退屈になる。
・町中を散歩する。旧い屋敷作りの邸宅に"風情"を感じ、夕暮れの民家の台所の蛍光灯の光に"郷愁"と"孤独"を感じる。風景が次々に「物語」を紡ぎだし何時間歩いても飽きる事が無い。

どこでも生活していける方法

20代前半の頃に読んだグルジェフの「注目すべき人々の出会い」の中で、今でも読み返すエピソードがある。

「古代の叡智」を探すために中央アジアを放浪したグルジェフとポゴシャンは、旅行の資金を稼ぐために、マーケットで商売を始める。何も拠って立つものが無い土地で、2人がどうやって糧を得るのか?無から有を作り出すのか?






この辺鄙な田舎に移住して11年・・・

本当に魅力も含め何も無い場所で、いろんな葛藤を抱きながら、犬たちを飼育するのには最適と思い生活してきたが、犬たちに最高の環境を与える事以外は何も得なかったと最近まで思っていた。

でも、夫婦ともども、この場所から何も得なかったわけではないと最近思えてきた。




思い返せば、10年前の私は、都会にいたころにやっていた仕事でいつまで食えるか不安で一杯だった。当時、将来を模索して購入した本の中には「イチジクの育て方」という農業関連本まである。また、妻は、いくつかの大企業で、営業マンとしてずば抜けた成績を残し、ヘッドハンティングされるほどのキャリアを築いていたが、ネットしかない場所で食べていく方法については完全に無知だった。

しかし、過去6年間ほどで、この何も無い、何も育たたない場所に根を張って、2人とも、「どこでも仕事を作り出し、生活していける方法」を自分なりに身に付けたと思っている。

そうした仕事の方法は、この場所に何も期待できるものが無かったからこそ、見いだせたものかもしれない。

こんな将来性の無い別荘地にずいぶん立派な新古品の山荘を高値で買ってしまったものだが、そこで単に悠々自適に暮らしながら片手間のように仕事しながら日々着実に得ている糧を見ると、誰よりも、この場所から"元を取っている"かもしれない。重要なのは、私も妻もそれぞれの仕事を「義務」や「重荷」とは認識しておらず、「何よりも楽しい遊び=趣味」として認識してることだ。

私たちが得た仕事の技術は、今現在の私たちの生活を支えるだけではなく、今後どこで生活しようと、世間で定年と言われる年齢を過ぎようと、死ぬまでずっと私たちの生活を支え続ける資産となるのだ。

そう考えると、不毛の辺境の地で「自由」を発見したともいえる。その「自由」は、魔法の絨毯のように生きている限りどこへでも持って行って、そこで展開できるのだ。たとえ異国の地でも。




ふと思い出したが、最初に正社員として雇われた会社(従業員数名の大阪の零細 IT 会社)で、入社直後に「なんでもいいから、事業のアイデアを考えて提出しなさい」と課題を出されたことを思い出す。当時はインターネット黎明期だったが、27歳のわたしはネットを活用した、極めて単純な商売のアイデアを出した。

その時、そのアイデアは一笑にふされた。今思い返せば、その時点で会社をやめて、そのアイデアどおりの商売をやっていても、サラリーマンをやるよりもはるかに簡単に収入を得れただろう、今も食えているだろうなと思う。そのビジネスモデルに世間で名前がつくのはそれから5年以上経ってからだ。

小銭を稼ぎ出すような小さなビジネスを考えるのは簡単である。それを信じて掘り下げれば、しばしば採算の合う規模の金脈に達するのだが、そこまでの確信を持てなければ、有効なアイデアでも放置されてしまう。

ビジネスとは単純で薄っぺらいモノであり、なんら複雑なものでは無い。単純で薄っぺらい事に他人よりも真剣に取り組んで、着実に実行できるかどうかだ。真剣に取り組み実行して行けば、時代が変わっても、その時代なりの花が咲く。

「職人労働」と「単純労働」

最近、自宅で仕事していて、自分がやってる「労働」には2種類あると思えてきた。

①職人労働 ・・・ 全身全霊で取り組むべきライフワーク的な仕事
②単純労働 ・・・ 事務作業のように惰性的に継続して仕事を続ければ良い単純な仕事

犬の病気や自分が寝込むといったプライベートの突発的事態がある場合、①「職人労働」は大きな影響を受ける。自分の創造性から発するクリエイティブな仕事は、プライベートで感情がかき乱される出来事が起こると中断してしまう。

一方で、②「単純労働」は、どんな事態が起こっても中断せずに続けられる。実際、昨年の一時期、ほぼ1か月ほど寝込むような事があったが、②「単純労働」の仕事は平然と続けることが出来ていた。極端な話、ベットの中でも出来るのだ。

"自分にしか出来ない仕事"という観点では、①「職人労働」の方が、大切な仕事なのだが、いついかなる時でも継続できるという点を見れば②「単純労働」はタフさがある。人生のどんな悪路でも走破して行けるのだ。

今まで、自分は②「単純労働」的な仕事をとても軽く見ていた。小学生の頃からなんらかの形でやっていたような原始的な仕事だからだ。①「職人労働」のような積み上げた知識と才能の資産のようなものは②「単純労働」的な仕事には乏しい。

だが、どんな時でも継続できると言う、悪路走破性が高い②「単純労働」的な仕事にももっと目を向けて良いと思えてきた。

大きなビジネスを行う起業家のような人々は、実は、①「職人労働」的仕事を追求した人々ではなく、②「単純労働」的な仕事を、人より多くスピーディーにこなす事を追求した人々が多いのではないだろうか?

また、仕事の中の①「職人労働」的な部分を、②「単純労働」化する努力も必要だろう。創造性を多少削っても、パターンにはめ込んで単純労働化して、いつ何時も継続して行ける形態にした方が結果につながる。

「1日30分」を続けなさい!人生勝利の勉強法55

古市幸雄・著『「1日30分」を続けなさい!人生勝利の勉強法55』のkindle版を聞きながら仕事している。



先日の植田統「45歳から5億円を稼ぐ勉強法」とあわせて参考にしている。



毎日数分のコマ切れ時間でも勉強に充てる事。

同じように仕事をしていても、このような習慣をつけている人とそうでない人では将来に大きな差が開く。
金額で言うと何億という差になる。

いずれも、中学生・高校生の時に身に付けておきたかった習慣ばかりだが、44歳になった今からでも遅くあるまい。

母親なども40代後半ぐらいからコツコツと英語を勉強して英検準一級を取っているし、姉もTOEIC950点以上を取っている。
自分も英語は昔から得意で、嫁のビジネスにおいては、海外ディーラーとのやり取りのメールなどをよく書いているが、本格的に勉強を始めてみようかと思っている。宅建などすぐに取れそうな資格も取ってみようかな?

仕事人の中の上位20%の学習能力を保ちさえすれば、経済衰退期・混乱期にも生き残れ食っていけるはず。
これからどうなるかわからない社会で生きてゆく上で、最大の武器は勉強だと肝に銘じたい。

別荘地のゴタゴタなど、将来性の無い場所の事は考えず勉強を続けよう。