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40代半ばからの『代紋TAKE2』的思考法

『代紋TAKE2』という漫画は、リアルなヤクザ漫画でありながらSFという異色の形式をとっている。



1989年に鉄砲玉にされて惨めな死に方をする負け組ヤクザが、気づけば1979年の自分に戻っている。

1980年代のバブル景気を知り尽くした主人公が1979年に戻るのだから、「あの時こうすればよかった」「ああすればよかった」ということをやり直せるわけである。ゆえに、1989年には末端構成員として人生を終える負け組ヤクザの主人公は、1979年に戻る事で日本で一二を争う大物へとのし上がってゆく。




40代半ばともなると、自分の良い点や悪い点、得意な事、不得意な事、好きなモノ嫌いなモノがはっきりわかっている歳頃である。孔子が言った「四十にして惑わず」とはおそらくそういう意味であろう。

この歳から奇抜な冒険をする必要は無いし、してはいけないのだ。この歳からはフロンティアを開拓してはいけない。あくまで自分の領分の中でベストを尽くすのだ。

『代紋TAKE2』の主人公がそうだったように、20代・30代の失敗・成功を糧にして「あの時こうすればよかった」「ああすればよかった」をやり直し、自己実現を図って行くときなのだ。




過去を振り返れば、自分は10の事にトライしたが、1か2の事に集中してそれに精通しておけばよかったと思う事が多い。
そして、様々な幸運がめぐってきたが、目の前の雑事に忙殺されて、その幸運を受け入れる器が無かったと言う事。

そろそろ、諸葛孔明のように世の中には『機』というものがあり、それを逃さず動くべきということを理解した方が良い。
そして『機』を逃さないためには、雑事に忙殺されていてはならず、やる事を絞り、あらゆる物事を整理して単純化しておかなければならないのだ。



自分の常勝パターンに常に従う

これからは何事をやるにも『代紋TAKE2』の主人公のような思考法をとろう。

やることはやりつくしたのだから、これからは新たな分野を開拓せずに、自分や世の中の良い面を見つめ掘り下げ、それを伸ばすのだ。

何事をやるにも新たなやり方にトライせず、遠回りに見えても『自分の常勝パターン』に従ってやるのだ。

付加価値はどうやって生まれるか?

常温の水を付加価値の無いモノと規定する。
温泉や冷水のように、常温の水と温度差があるものが付加価値があるものである。
「冷たい!」「熱い!」と感じる事がすなわち付加価値なのである。

この差異が大きければ大きいほど価値を生む。




たとえばブログを作ってアクセスを得たいと考える人がいるとする。
あるいは、YOUTUBEに動画をUPして収入を得たい人がいるとする。

そのために、人に注目されたい!興味を引きたいと思うだろう。
そしてそのために利用できるものを探す。

その際に、この差異が価値が生むという自然の原理を利用できる。




ここで注目される一つの方法は、差異のある話題・物事を取り上げる事である。

「フィリピンの激戦地でゼロ戦の残骸を発見」(話題として付加価値が無い)
    ↑
    ↓
「実家の裏山でゼロ戦の残骸を発見」(付加価値がある)

「氷河期世代で生活難です」(話題として付加価値が無い)
    ↑
    ↓
「昨日まで億りびとだったけど、ビットコインで全財産無くました」(付加価値がある)

「金持ちなのでスーパーカー・オーナー」(話題として付加価値が無い)
    ↑
    ↓
「家賃15000円のアパート暮らしだけどスーパーカー・オーナー」(付加価値がある)




同じ結果が生じている物事でも、その結果に至る過程と結果の間に差異がある物事は人の注目を集める大きな要因になる。

この法則がもっとも利用されているのは漫画の世界である。

『刑事だけど刺青が入ったヤクザ』
『殺し屋だけど、ストイックな修行者』
『闇金経営者だけど、趣味はウサギの飼育』
『自殺未遂者だけど、孤島で生きる意味にめざめた』
等々・・・・

「感受性」と「人々の欲しがるものを見極める能力」

島田紳助が芸人養成学校NSCで芸人の卵たちに語っている動画がyoutubeにUPされている。

ときどきその動画を見返すのだが、見るたびに発見があり奥深い。

島田紳助はこんな事を言ってる。
「俺らは、普通の人と違って、心で物事を見ないとあかんねん。」

心で物事を見るとは、要するに「感じる」「感動する」など感情で物事を受け止めるという事だ。

感動する事が出来る力というのは、ある種の才能でもあると言える。

夕焼けなどの美しい光景を見ても何も感じない人もいれば、心が高揚で満たされる人もいる。

後者のタイプは、美しさを感じ取れる「感受性」を持っている。

霊媒師が、霊感でもって霊を感じ取れる才能によって、その生業で生きる事が出来るのと同様に、芸人やアーティストのような表現者にとっての基礎的な資質は「感受性」である。

面白い芸を作るには、まず先人たちの芸の何が面白いか、自分の「感受性」のレーダーで見極める事が必要である。

そして、先人の芸を模倣しつつ、そこに自分のオリジナリティを織り込んで自分の芸を作ってゆくのである。

人にモノを売る「商才」も同様で、自分が「コレは欲しい」と思えるようなモノへの感受性が必要である。
それがなければ、人々が何を欲しがっているかわからない。

「商才」がある人々は、自分が欲しいモノを探すレーダーを用いて、人が欲しがるものを見極める才能を持っているのである。

これは料理や絵画、音楽、などありとあらゆる世の中のものについて言える事である。

自分は何の仕事に向いているかという見極めもまた、「自分が何に感動できるか?」によって決めるべきである。

そろそろ本業(ライフワーク)に戻るべき時・・・

幸せな時間の記憶 という記事を書いた日が、7/29だ。実は記事を書いた日に、クララの病気が発覚している。

クララは、あと1週間弱で、病気になってから4か月は生きた計算になる。
本来であれば、末期の場合、1か月以内に死ぬ子が大半の血管肉腫と言う病気で、胸水がたまり続けるという末期症状なのに、こんなに長期間、生きる子は珍しく先生も驚いている。

重度の病気なのに、基礎体力の強さと心の前向きさ、日々を楽しむ気持ちがありすぎて、クララはなかなかヘコたれない。飼い主の私としては、3ヶ月を過ぎたころから、「もう十分頑張ったし、2か月間はバンビと一緒に散歩も出来た。これ以上苦しい状態になる前に元気なうちに安らかな死を迎えられたら幸せだろうに。」と思っていたが、症状は着実に悪くなりつつも、クララは場面場面を乗り切って、未だに食欲を維持しボール遊びもする。こんなに長期間、週3回も胸水を毎回1リットル、週3リットルも抜かれ続けて生きている犬も他にいないだろう。

だが、さすがに先生も「私の感覚ではあと1、2週間ではないかと思っている」とのこと。自分の感覚では、クララの事だからあと1か月ぐらい頑張るのではないかと思ったりしている。以前飼った犬の死では後悔をたくさんしたが、クララに関しては飼い主として出来る100%の事をしたという自覚があるのでいつ終わりが来ても後悔はないと断言できる。

いずれにせよ、もう長くないのは確かなので、毎日クララを載せて、クララが大好きな夜ドライブに出かけ、クララだけではなく私たちも赤穂で外食したりバンビの散歩をしたり楽しんで暮らしている。







犬の世話もろもろで1年間本業(創作活動)ができないでいる。
その間に発掘した新分野の副業(あまりオツムを使わなくてもいい単純流れ作業的仕事)を拡大させて本業が停止している分を補っている。

放置している本業関連のSNSのフォロワーを見ると、半年前に10000フォロワーちょっとだったのが、15000フォロワー直前。著作権料は横ばいだが、フォロワーが増えているせいか家賃収入のように毎月確実に入ってきて減らない。キチンと活動していれば、今頃30000フォロワーは超えているかも。確実に風は吹いているのだが、大型犬の老犬を2頭も飼うという作業の重荷で本業に手を付けられないでいたのがもどかしい。

クララを病院へ連れて行くのは、先週から妻がやってくれているので、そろそろ本業に戻ってゆこうと思う。今度本業に戻ったら、2度と本業と自分を引き離すような重荷を新たに負うまい。全てを本業中心に考えて、何物にも邪魔されない鉄壁の環境を構築したい。




世の中は、どんどん内向きになると予想している。アメリカ合衆国の場合、リーマンショック以降、家で過ごす人が増えて、ディズニーなどコンテンツ提供会社が成長した。映画「マトリックス」の世界のように、人々は、より虚構の中で生きるようになる。そうした時代に食うに困らないのは、虚構を生み出せるクリエイティブな仕事だと思っている。

その虚構を生み出す仕事に従事する人間もまた、「理不尽」な現実に翻弄されない、閉ざされた虚構の世界に生きねばならない。

「物語」の力


今日の夕方散歩中に以下のような事を考えた。書き記しておこう。



人類は虚構を作り出す事で・・・の記事でサルや類人猿、クロマニョン人が作る群れは100頭程度が限界で、それ以上の群れを作るには、「虚構」が必要であるという記事を書いた。人類の中で、ホモサピエンス種のみが「虚構」を作り出す事ができたという。「虚構」によってホモサピエンス種は、数千頭、数万頭、数百万頭というすさまじい数の群れを作る事が出来た。

アフリカ・サバンナで生態系の下位にいたホモ・サピエンスは「妄想力」によって全世界を支配する種になってゆくという説をとなえた、今話題のベストセラー本「サピエンス全史」。↓↓



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明智光秀は「仏のうそをば方便と云、武士のうそをば武略と云。土民百姓はかはゆき事なり。」という言葉を残しているが・・・。
仏や武士がつく「うそ」こそが、この「虚構」なのである。

僧侶や武士といったエリート階級は「虚構」を作り出せるが、土民百姓は「虚構」を作り出す能力が無いので、僧侶や武士の奴隷になるしかないのである。
戦国時代の抜群の秀才であった明智光秀は、このような鋭い言葉を残しているのである。

この「虚構」を別の言葉に言い換えると、それは「物語」である。
「物語」を作り出せる人間だけが、100人以上の人間を感動させたり、様々な影響を与えることが出来る。

何かを創造、クリエイトする人間は、つねに「物語」というものを念頭においておかなければならない。

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「物語」が人を魅了する様子を簡単な例で以下に表現する。

例1:庭

・ホームセンターや通販で、趣味の良いガーデンアクセサリーを揃える。小奇麗だがありきたりな庭になる。
・洋風の家の雰囲気に合わせて、"イタリアのコモ湖の別荘風"などテーマを決めて素材を選び、雰囲気を作ってゆく。人はそこに「物語」を見出す。

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例2:プラモデル

・車のプラモデルを"綺麗に"製作する。人がそれを見ても「綺麗に作れましたね」で終わる。
・車に汚しを入れて、その車に"使用感"を出す。人は、その汚しに「物語」を見出す。

例3:インスタグラム

・インスタグラムに、ひたすら"清潔感の田舎の自然の風景"をアップロードする。お愛想の「いいね!」、フォローで終わる。
・一方で、"田舎で犬を育てている"などのテーマで、その場面場面、喜怒哀楽を写真でアップロードしてゆけば、そこに人は容易に「物語」を見出す。

例4:散歩

・別荘地の自然の風景の中を散歩する。最初は気持ちよくてもすぐに退屈になる。
・町中を散歩する。旧い屋敷作りの邸宅に"風情"を感じ、夕暮れの民家の台所の蛍光灯の光に"郷愁"と"孤独"を感じる。風景が次々に「物語」を紡ぎだし何時間歩いても飽きる事が無い。