因習の村 因習の別荘地・・・

「惨殺半島赤目村」という漫画を読んだ。



最近はまってるウシジマ君とは別系統だが、これはこれで傑作。

「惨殺半島赤目村」という横溝正史の伝統を引き継いだ因習ワールドもまた、自分は一般読者以上にリアルに感じる事ができる。

なぜなら、「惨殺半島赤目村」で描かれる、バブル期のリゾート開発が頓挫した島というのは、私が田舎物件を探して右往左往したことのある淡路島とよく似ているし、皆が皆の悪口を言ってる閉鎖社会というのは今私が住んでいる別荘地そのものだからだ。播磨自然高原・・・。

「惨殺半島赤目村」の最初の場面で、僻地医療にたずさわるために赴任してきた医師である主人公は、島の社会が、~派、~派の派閥に分かれていがみ合っており、誰もが表裏を使い分け、やがて一人も信用できる人がいない事に気づく。わたしが別荘地引っ越した当初に接した人々も、「あなたは~派か?」と聞かれるほど、定住者が派閥に分かれて悪口を言い合うおぞましい風習の社会だった。今では裁判や批判ビラまきや総会での怒号うずまく罵りあいにまで発展している。別荘地内にカフェ兼ワークショップを作った人は定住者の「金儲けしている」という嫉妬を買って陰口を叩かれまくって最近は閉めてしまった。(定住者の集団の一部は「俺たちが潰してやった」と言ってるそうだ。)閉鎖社会は恐ろしい。

漫画において突拍子もない設定に見えるものでも、現実もそれに負けじと狂ってるのが日本社会である。なまじっかな設定の平凡な小説よりも、何でもありの漫画の世界の方がリアルに感じてしまう。最近は、毎日数時間は漫画を読む時間にあてている。

手放さなくても良い山荘

かなり周囲が荒れてみすぼらしい別荘地になってきたが、自分の山荘への愛情は深まるばかりである。いまさら手放してもたいしたプラスにもならないし、手放せばこのような贅沢な山荘を手に入れる事は2度と出来ないのだから、その意味でも手放す必要もない。こう悟れた事はある意味幸せかも。山荘を保ち長持ちさせるために出来る事をコツコツやってゆこう。

50代の生活を見据えれば、高地での定住生活は少々厳しいものになってくることは目に見えている。

今の生活のマイナス面 in 播磨自然高原
・冬場の寒さが半端ない(健康へのマイナス=光熱費も相当かかる)
・気圧の不安定さが耳など身体の繊細な器官に与える悪影響
・どこへ行くにも往復50-100キロの超絶不便な住環境
・文化面での豊かさがゼロなため町から受ける刺激の乏しさ
・自主管理別荘地の雰囲気の悪さ・管理のお粗末さ(人材の乏しさ)
・2キロ先に計画されている産廃処分場。

こうしたものが、居住10年を迎えて、少々耐え難いものになってきたのも事実で、10年弱先に定住地をもっと都会に移す事を考えはじめている。その場合、住居としてではなく、純粋な別荘としてこの山荘を所有し続ける事になる。姉の家族や赤穂の友人たちに使わせることも出来る。将来は人に貸しても良いかも。こうした余裕あるものを一つ持っておくことは、贅沢でワクワクする。田舎物件など2度と買いたくないし、オンボロ別荘地などとても人にも勧められないが、すでにあるのだから手放す必要は無いのだ。

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今後の人生において、守りたい事は以下の事。

1.シンプルライフ:極力モノを少なくして、心躍るもののみを残す。
     → 自由度を最大限に:手間のかかるルーティン削り、生活の自由度増。理想を言えば、冬場は温暖地(沖縄・九州)で暮らせるぐらいの自由度が欲しい。

2.仕事第一の環境:これからの世代は一生働く世代なのだから、何よりも何にも煩わされず楽しく仕事ができる環境を作る事が大事。
  バカな暇人・赤の他人に煩わされない場所を自分の居場所にする。

3.健康へ人一倍気を遣う:老齢化してゆくにつれ健康であることの価値が増す。歯磨きもそういう意識で。
  市立病院の徒歩圏内に住む。毎日数時間は思索と散歩に費やせるぐらいの、刺激と深みのある町に住む。



迫りくる大不況に精神面・物理面の両面で備える

田舎に住んでいると、日本全体の変化を実感として感じる事は少ない。
いや、着実に周囲の田舎や別荘地は荒廃していってるが、株価上昇などを見る限り、日本全体はむしろそこそこいい状態にあるのではないかと思ったりもしている。

だが、一方で大不況が迫っているのではないか?という不安もなんとなく持ったりしている。
政治状況の混乱のニュースなどを見ていて、そのような確信を日々深めている。

今、明確に実感することは、田舎の小規模店舗がどんどん閉店していってること、いよいよ別荘地の外の地元の住宅地の住宅が100万円200万円300万円といった尋常でない価格で投げ売られはじめたこと。いままでまともな体裁を繕っていた場所でも価格崩壊が起き始めている。大都市近郊の郊外なども同じ現象が起きているのではないか?

こうした現象の中で、いままで保たれていた社会の基礎的な部分の均衡が徐々に破壊されて、いろんな機能が突然死してゆく現象が起こってゆくだろう。もっとも弱い部分として、民間の小規模店舗の閉店現象が連続して起こっているのだ。

迫りくる大不況に精神面・物理面の両面で備えなければならない。
愛犬に愛情をそそいで後悔のないように最後までしっかり面倒を見る事。一方、物理面では、生活スタイルをミニマム化する事。山荘は保有し続けたとしても、いつまでもココで暮らさなければならない事はあるまい。すくなくとも精神面の自由さを確保するため、いつでも移動できるような自由度を確保できるように準備しておこう。

物理面でモノを減らし、ミニマムにシンプルにしてゆき、いつでも移動可能にしておくことが、精神面での閉塞感を払しょくすることに繋がるだろう。

また諦めるという精神的作業も自由度を確保するために必要な事だ。ユダヤ人はジュビリーという考えを持っている。50年に一度、負債が清算されてチャラになる。私も、心の中に鬱屈して溜まった負債(モノへの執着・不快な記憶・憎悪など)をジュビリーしなければならない。そうすることで、場所やモノから離れて自由になれる。

モノではなく、体験にお金をかけてゆくようにする。たとえばいい車がを買いたいではなく、いい店で食事したいという風に。そして一番重要な事は、肉体・精神、両面の健康さを保つ事。その健康さを保つために、外部環境を自由に変化させることができる自由度を確保しよう。車・家といった大型のものをレンタルで済ませる時代にますますなってゆくだろう。自由な生き方ができる人間が勝ち組で、モノに縛られ場所に縛られる人々はますます負け組になるだろう。

変化の時代にもっとも苦労するのは自由度の無い人である。自由である事、何よりもそれに価値を置くべき時代の到来が真近に迫っている。夫婦や血族で協力し合い努力してそれを乗り切ってゆく事を楽しみにできるようにしよう。

医者が猛烈に余り、移民の扉が開く ・・・ 堺屋太一

実家の母親が月一ペースで来て、あいかわらずドライブと食事とカフェめぐり。いつも会話の中心になるのは、この社会がどうなってゆくか、どう衰退してゆくか。

大阪一の人気地区である実家の周りのニュータウンは、田舎と違い団地がマンションに変わり、戸建ての土地は分割されて、昔に比べて人がひしめき合っている。にもかかわらず、北千里や千里中央の飲食店は寂れいるのだという。なぜだろう?

堺屋太一の本が話題の中心になった。以下の本である。



堺屋太一の記事を読んで意外感があることがある。2020年以降に到来する不況では、医者が猛烈に余る、という指摘。K計学園問題の時に獣医師が今後いかに余ってゆくかのグラフを見て愕然とした経験があるが、人間の医師でも同じことが起きるのだろうか?

実は、私が住んでいる上郡町やその周辺の町でそれを体感している。

個人医院がガラガラで、薬をもらうときに、「ずっと来てくれてないとこの薬は在庫できない。」と言われる。看護婦が営業員になって、一言発するたびに検査をされてぼったくり請求書を渡されるボッタクリ医院に入ってしまったこともある。また、むかし手首にヒビが入ったときは、私が自宅で仕事をしていると知るや、ギブスではなく手術でプレートを入れましょうと入院を勧めてきた。結局ギブスしてもらい、2週間後に自分でハサミで切って外して全快した。一方、流行っている医院は猛烈に流行っている。2極化がすごい。

2020年以降、不動産価格の暴落が起これば、日本人は窒息するような絶望感に陥ると言う。そうすれば、必ず移民を入れようという話になると。

堺屋太一は、戦国時代、江戸時代初期、明治初期には、戦争難民・経済難民・文化難民の中国人が大量流入して日本を活性化したと指摘する。

私は大阪時代は、大戦中に移民した台湾華僑の友人と一緒に仕事をしていたので、彼らがすぐに日本になじんで、時に日本人以上に日本人らしくなることを知っている。なので、移民にはそれほどのアレルギーは無い。だが、今の社会の風潮では、移民受け入れ増加に至るまで、相当の衰退と混乱を経るだろうなと思う。

少子化で相当のダメージを受けない限り、そのような結論に到達できないかもしれない。

一方、ステルス的な移民増加は体感している。仕事の中で、知らず知らずに外国人相手の仕事が10%を超えて行っている。大半は中国人だが、カタカナでどの国の人かよくわからない人もいる。田舎の町でも、辺鄙な工場からは、ネパール人?かベトナム人かわからない礼儀正しい若い人たちが自転車で帰路についている。またイラスト投稿サイトのフォロワーも中国人・韓国人の増加がすごい。

実は、極東はすでに複数民族が価値観を急速に均一化して文化的な統合が自然現象的に水面下で起こっているのかもしれない。衰退現象ばかり目で追っていると時代を取り違えるかも。

サービス業で回られている人々の苦悩

ある場所が荒廃してゆくとき、その荒廃を一番最初に察知し、それからの被害をこうむるのはサービス業で回られている人々であると思う。ここでは、各種の配達や送迎や清掃などの仕事を言う。

こうした人々は、仕事内容ももちろん大変なのだが、同時に人々とコミュニケーションもしなければならない大変な仕事なのだ。同時に、客から「俺は客やぞ」という態度を一番とられやすい仕事でもある。

別荘地などの場合、こうした業種の人々が回ってくれているおげで生活が成り立っているという自覚があるので、なるだけこうした人々が気持ちよく仕事できるように対応するようにしている。それは同時に私にとっても、まともな感覚の人々と日常的にコミュニケーションをとれる有難い機会なのだ。

そうして、「最近どうですか?」という世間話をするのだが・・・温厚な顔をした方からあふれ出る不満の数々たるや。こちらが世間話程度で切り上げようとしても、話が次々に膨らんでなかなか収まらない。よっぽど聞いてくれる相手を求めていたのだろう。

過去10年の価格崩壊と、過去5年ほどのオーナーチェンジの結果、街中・農村ふくめた地元の地域の中で、別荘地だけが突出してガラが悪く、難しい場所に地元の人々から見られているのではないか?火事が頻発し、地元消防団経由でも悪名が広まっているだろう。おまけに不便で、サービス業の人にとっては良いところが何も無い。

そうした人々の話を聞くことで、共感を覚え、この場所の様々な事に不快感を覚えているのは自分だけではない事を認識して癒される効果があるし、またもっともっと深刻な影響を受けている人の存在を知り、自分などまだ軽い方だと思えてきたりもする。

しかし、定住世帯が200人程度なのに、いったいいくつのご近所トラブルや裁判が起こっているのか?もっと大枠では別荘地の運営方針をめぐり、覇権争い・派閥争いが起こっている。だが、住民の高齢化で今後はもっと酷くなるに違いない。

移住してまもない人など、まったく無自覚の人もおり、地元よりも品のいい場所・レベルの高い場所だと思い込んでいる人々も中にはいる。すでに日本一地価が安いのにゲートを作ってしまってるのが滑稽でもある。どうやったら何十倍も地価の高い地元よりも優位に立っていると思えるのか疑問だが、そのような思い込みも地元のサービス業の人々に対して上から目線の態度を取ってしまう一因なのだろう。だが、本当に品のいい人がそう思い込んでいるなら、醜い現実を知る機会がなくてある意味、幸福だろう。

また同時に、数年前から変化に気づいて警戒しながら暮らしている私たちも、その変化に気づいてる点では幸福だろう。幻想をいだいて後で裏切られる事ほど不幸な事はないからだ。

しかし、愚かしいと思うのは、別荘地の運営を考える住民が、毎年収入が減っている現実を前に、こうしたサービス業の人々の食い扶持に手をつっこんで、別荘地職員が代わりにそのサービスをやればいいと言い出している事だ。それに事業予算がついているのだから愚かしい。

どれだけ大変かわかっているのだろうか?また他人の米びつに手をつっこむ行為がどれだけエゲツナイかがわかっているのだろうか?もしそんなことを始められても、プロ意識ゼロ信頼感ゼロの自主管理別荘地に何かのサービスを頼む気などこちらはさらさらないが。




安心を自称する別荘地

本来であれば、別荘の購入希望者に事前に、「この別荘地は、老朽化したインフラを満足に更新できておらず耐用年数をはるかに超えた状態。」「開発主が事業破綻した元別荘地で、一部有志が管理組合的なものを作っているが、破綻のゴタゴタでスッタモンダがあり、全ての土地所有者が会員になっているわけではなく、全ての道路インフラを取得できているわけでもなく、規約・規定も一部の利用者に対しては及ばない場所。だから太陽光なども作られる。」「本来別荘地の格を守るべき職員自身によって一区画10万円前後の安値で空き地が投げ売られている。しかもマトモな別荘建築用途に使われるわけでない事を知りつつそれを行っている。(職員自身がこの別荘地をその程度のレベルの場所と認識、これより下を探す方が難しい最低ランクの不動産)」「運営方針をめぐって内部で揉めまくっており、運営への批判ビラがバラまかれて、総会は怒号の嵐。」「一部重鎮や元職員は太陽光を目の前に作られた別荘オーナーから裁判まで起こされている。」「このような場所なので覚悟して購入してください。」などとハッキリ正直に言うべきなのではないか?自己責任とは言え、何も知らない新規購入希望者に対して、「安心」などと軽々しく書くものではないと思う。