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これからますます悪くなる


母親があいからわず月1回ペースで遊びに来るので、愛犬のバンビを同乗させて、最近は赤穂のミオテンプリーナでランチし、犬の散歩、そして軽くドライブしてカフェしてブラブラしながら母親とあれこれ話している。

この一か月は、母が住む大阪北部で大地震、私が住む中国地方山間部では大水害と天変地異に関西~中国地方が見舞われている。

母の友人などは大阪のマンション住まいの人が多いが、今回の強烈な大阪地震でマンションがヒビだらけになり、家の中もムチャクチャになって、「売る予定だったのに、地震が来る前に売っておけばよかった」と嘆いている人が多いらしい。また四国・中国地方の田舎に立派な家を建てている人々は悲惨な目に合っている人が多い。私の別荘地も近年はゴタゴタ続きで呆れ果てるような状態。

「その点、賃貸はこういう時にリスクが格段に小さいからいいよね」と話している。日本の国土はヨーロッパなどに比べて、天災がすさまじく多い。こんな国の住民が持ち家に拘るから、一寸先は闇である。

私自身も母のように老齢になっていくこれからは住む場所も暮らし方も戦略的に考えないとえらい目にあうと思う。

私も昔は2軒別荘を持っていたが、一つでも手放しておいて本当によかった。毎年何回か遊びに行く牛窓のペンションのドッグランは斜面が崩落して使用できなくなったそうだ。斜面だらけの山の別荘地も、大雨などで基礎周囲の地盤が緩んで今後は別荘そのものが崩落するケースが増えてゆくのではないか?(谷に落ちた別荘を一軒知っているが)




母に「うちの別荘地は、理事(自主管理のため住民の代表)をやりながら自分の別荘を売り出して、別荘が売れてもまだ理事をやっている人がいるそうだよ。その人は、それを指摘されて『利用価値の無い土地』を購入したけど入会金も登記費用も管理事務所持ちだったんだって」と言うと、「それってどういう事?」と目が点になって唖然としていた。衰退した別荘地では驚く事ばかり。(播磨自然高原)

中国地方の天災も、高齢化で山や河、野池の整備がされない → 流木が増える → 橋の欄干に木がはさまって洪水。という高齢化・人口減少の弊害が出ている。高齢者が支えてきた農業ももう先が見えており、これからは野菜や肉も国産品は値上りの一途だろう。これからはますます暮らしにくくなる。

これからますます悪くなる衰退社会において、トラブルに巻き込まれずより良く暮らせるように戦略的に考えて暮らしてゆかなければならない。

因習の村 因習の別荘地・・・

「惨殺半島赤目村」という漫画を読んだ。



最近はまってるウシジマ君とは別系統だが、これはこれで傑作。

「惨殺半島赤目村」という横溝正史の伝統を引き継いだ因習ワールドもまた、自分は一般読者以上にリアルに感じる事ができる。

なぜなら、「惨殺半島赤目村」で描かれる、バブル期のリゾート開発が頓挫した島というのは、私が田舎物件を探して右往左往したことのある淡路島とよく似ているし、皆が皆の悪口を言ってる閉鎖社会というのは今私が住んでいる別荘地そのものだからだ。播磨自然高原・・・。

「惨殺半島赤目村」の最初の場面で、僻地医療にたずさわるために赴任してきた医師である主人公は、島の社会が、~派、~派の派閥に分かれていがみ合っており、誰もが表裏を使い分け、やがて一人も信用できる人がいない事に気づく。わたしが別荘地引っ越した当初に接した人々も、「あなたは~派か?」と聞かれるほど、定住者が派閥に分かれて悪口を言い合うおぞましい風習の社会だった。今では裁判や批判ビラまきや総会での怒号うずまく罵りあいにまで発展している。別荘地内にカフェ兼ワークショップを作った人は「金儲けしている」という嫉妬を買って陰口を言われまくっていた。閉鎖社会は恐ろしい。

漫画において突拍子もない設定に見えるものでも、現実もそれに負けじと狂ってるのが日本社会である。なまじっかな設定の平凡な小説よりも、何でもありの漫画の世界の方がリアルに感じてしまう。

迫りくる大不況に精神面・物理面の両面で備える

田舎に住んでいると、日本全体の変化を実感として感じる事は少ない。
いや、着実に周囲の田舎や別荘地は荒廃していってるが、株価上昇などを見る限り、日本全体はむしろそこそこいい状態にあるのではないかと思ったりもしている。

だが、一方で大不況が迫っているのではないか?という不安もなんとなく持ったりしている。
政治状況の混乱のニュースなどを見ていて、そのような確信を日々深めている。

今、明確に実感することは、田舎の小規模店舗がどんどん閉店していってること、いよいよ別荘地の外の地元の住宅地の住宅が100万円200万円300万円といった尋常でない価格で投げ売られはじめたこと。いままでまともな体裁を繕っていた場所でも価格崩壊が起き始めている。大都市近郊の郊外なども同じ現象が起きているのではないか?

こうした現象の中で、いままで保たれていた社会の基礎的な部分の均衡が徐々に破壊されて、いろんな機能が突然死してゆく現象が起こってゆくだろう。もっとも弱い部分として、民間の小規模店舗の閉店現象が連続して起こっているのだ。

迫りくる大不況に精神面・物理面の両面で備えなければならない。
愛犬に愛情をそそいで後悔のないように最後までしっかり面倒を見る事。一方、物理面では、生活スタイルをミニマム化する事。山荘は保有し続けたとしても、いつまでもココで暮らさなければならない事はあるまい。すくなくとも精神面の自由さを確保するため、いつでも移動できるような自由度を確保できるように準備しておこう。

物理面でモノを減らし、ミニマムにシンプルにしてゆき、いつでも移動可能にしておくことが、精神面での閉塞感を払しょくすることに繋がるだろう。

また諦めるという精神的作業も自由度を確保するために必要な事だ。ユダヤ人はジュビリーという考えを持っている。50年に一度、負債が清算されてチャラになる。私も、心の中に鬱屈して溜まった負債(モノへの執着・不快な記憶・憎悪など)をジュビリーしなければならない。そうすることで、場所やモノから離れて自由になれる。

モノではなく、体験にお金をかけてゆくようにする。たとえばいい車がを買いたいではなく、いい店で食事したいという風に。そして一番重要な事は、肉体・精神、両面の健康さを保つ事。その健康さを保つために、外部環境を自由に変化させることができる自由度を確保しよう。車・家といった大型のものをレンタルで済ませる時代にますますなってゆくだろう。自由な生き方ができる人間が勝ち組で、モノに縛られ場所に縛られる人々はますます負け組になるだろう。

変化の時代にもっとも苦労するのは自由度の無い人である。自由である事、何よりもそれに価値を置くべき時代の到来が真近に迫っている。夫婦や血族で協力し合い努力してそれを乗り切ってゆく事を楽しみにできるようにしよう。

医者が猛烈に余り、移民の扉が開く ・・・ 堺屋太一

実家の母親が月一ペースで来て、あいかわらずドライブと食事とカフェめぐり。いつも会話の中心になるのは、この社会がどうなってゆくか、どう衰退してゆくか。

大阪一の人気地区である実家の周りのニュータウンは、田舎と違い団地がマンションに変わり、戸建ての土地は分割されて、昔に比べて人がひしめき合っている。にもかかわらず、北千里や千里中央の飲食店は寂れいるのだという。なぜだろう?

堺屋太一の本が話題の中心になった。以下の本である。



堺屋太一の記事を読んで意外感があることがある。2020年以降に到来する不況では、医者が猛烈に余る、という指摘。K計学園問題の時に獣医師が今後いかに余ってゆくかのグラフを見て愕然とした経験があるが、人間の医師でも同じことが起きるのだろうか?

実は、私が住んでいる上郡町やその周辺の町でそれを体感している。

個人医院がガラガラで、薬をもらうときに、「ずっと来てくれてないとこの薬は在庫できない。」と言われる。看護婦が営業員になって、一言発するたびに検査をされてぼったくり請求書を渡されるボッタクリ医院に入ってしまったこともある。また、むかし手首にヒビが入ったときは、私が自宅で仕事をしていると知るや、ギブスではなく手術でプレートを入れましょうと入院を勧めてきた。結局ギブスしてもらい、2週間後に自分でハサミで切って外して全快した。一方、流行っている医院は猛烈に流行っている。2極化がすごい。

2020年以降、不動産価格の暴落が起これば、日本人は窒息するような絶望感に陥ると言う。そうすれば、必ず移民を入れようという話になると。

堺屋太一は、戦国時代、江戸時代初期、明治初期には、戦争難民・経済難民・文化難民の中国人が大量流入して日本を活性化したと指摘する。

私は大阪時代は、大戦中に移民した台湾華僑の友人と一緒に仕事をしていたので、彼らがすぐに日本になじんで、時に日本人以上に日本人らしくなることを知っている。なので、移民にはそれほどのアレルギーは無い。だが、今の社会の風潮では、移民受け入れ増加に至るまで、相当の衰退と混乱を経るだろうなと思う。

少子化で相当のダメージを受けない限り、そのような結論に到達できないかもしれない。

一方、ステルス的な移民増加は体感している。仕事の中で、知らず知らずに外国人相手の仕事が10%を超えて行っている。大半は中国人だが、カタカナでどの国の人かよくわからない人もいる。田舎の町でも、辺鄙な工場からは、ネパール人?かベトナム人かわからない礼儀正しい若い人たちが自転車で帰路についている。またイラスト投稿サイトのフォロワーも中国人・韓国人の増加がすごい。

実は、極東はすでに複数民族が価値観を急速に均一化して文化的な統合が自然現象的に水面下で起こっているのかもしれない。衰退現象ばかり目で追っていると時代を取り違えるかも。

林の中で・・・

自分の敷地はあまり急でない斜面(ところどころ平地に近いなだらかな部分もある)を中心に500坪ほどある。今は坪300円ぐらいの価値しか無い辺境の山林だ。

最近はこの別荘地も激安価格なのも手伝って数百坪~1000坪弱もの敷地の木を全部切ってしまうような使われ方が横行している。グーグルアースで見ても禿地がどんどん増えている。

自分は敷地の木を別荘の周りしか切っておらず8割がたの森林は手つかずのまま残っている。

別荘の周囲以外の400坪強は過去10年間、数回しか歩いたこともない。昨日、ふと自分の敷地を見て回ろうと思い、残りの400坪の林を下ってみた。初めて歩く場所だ。歩いてみると、敷地を左右にS字に下ってゆくととても歩きやすくちょっとした道を作ってやれば、下まで往復20分ぐらいのウォーキングはできそうな空間があることが分かった。正直、ウォーキングは大好きだが、別荘地の中(敷地の外)は雰囲気が暗く歩きたくない。自分の敷地にウォーキングロードを作れれば生涯利用出来て健康へのプラス効果は計り知れない。夏場もマムシ対策用に足に防護をしておけば歩ける。

自分の別荘が木々で見えなくなるぐらいの場所に来ると、周りは森林だけでとても清々しい空気が流れていた。そう、良かったころの別荘地はこんな心が落ち着く場所だった。そんな雰囲気の林の中で少しリフレッシュできた。

こんな良い雰囲気の空間が自分の敷地にあったとは驚きだった。地形的にも誰も意識しないで良く、冬の眺望も素晴らしい。ヴィトゲンシュタインの山荘のように、少々斜面を下ったり登ったりする場所に無ければ、俗人の干渉にさらされる。真の別荘たるものは険しい場所になければならないのだ。

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哲学者ヴィトゲンシュタインが生涯利用したノルウェーの山荘

この林の中に単に何度も歩いて足で踏み固めただけの小道を作って、そのところどころの傾斜が平らに近くなっている空間に、ワンダーデコールの小人などを並べて敷石を敷いただけの小さな謎めいた庭園を造ってやれば、とくに冬から春にかけてインスタ映えもする素晴らしい空間になるだろうと思った。またツリーハウスを作れる大きな木もあった。