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悪癖を絶つ ~ 時間と質を大切にする


あまりにも殺風景な場所で暮らしているとつい賑わいを求めて遠出したくなるが、それ自体は満足度が低いのに、壮大に時間が奪われる行動・・・車で片道1時間以上など遠くの店に外食に行くのはやめよう。また歳も歳なので、キャンペーン目的や優待券などを消費しに安物のチェーンに行くことも行った後の後悔が大きいので止めるようにする。

行くなら、中の上以上の店に行く。大規模経営の安物のチェーンなど、もともと行きたくないので、一生行かなくても何の問題も無い。

年に数回ならいいが、週に1、2回もそういう事をしていると本当に時間が無くなるし、人生がむなしくなる。

45-60歳の15年間はあっと言う間に過ぎる。歳をとればとるほど人間の行動は習慣化する。戦略的に、質の低い行動を習慣の中から排除しておかないと、後で大きく後悔する事になる。




そのかわりに、散歩のついでに近場の海岸などに弁当を持ってピクニックに行ったりする方が満足度が高いだろうし、帰りも30分もあれば帰れるので時間が奪われることも無い。

生活のクウォリティーを下げるような行為を徹底的に排除して、何事も"質"と"時間"を大切にして暮らそう。



また、複数の選択肢があるなかで、もっとも質の高い行動を選ぶ決断を積み重ねる習慣自体が、過去の記事に書いた"アホ"や"地雷"と遭遇する確率を下げてくれるかもしれない。

何の非も因果も無いのに突然巻き込まれるパターン


ゾッとするような事件がまた起こった。京アニ放火事件。

今年の5/28に私は以下のような文章を書いた。

川崎の通り魔事件に思う事 ~ 地雷付き社会の到来
http://bessousaisei.blog.fc2.com/blog-entry-243.html

かつて殺人事件と言うと、親類縁者をたどってゆけば犯人が見つかると言う事も多かった。恋愛感情や近親憎悪といった情が凶行につながる事が多かったのだ。だが、最近の殺人事件は、被害者が突然巻き込まれるケースが増えていると言う。

普通に暮らしている人が何の非も因果も無いのに突然巻き込まれるパターンだ。いわば地雷のようなものが社会の各所に点在しており、ある日、偶然その地雷を踏んでしまうケース。たまたま通りかかった、たまたまそこにいた。たまたま運が悪かったというだけでいきなり平穏な生活が地獄に突き落とされる。




相手の意図がわからない、相手と会話が通じない、会話が通じても相手からは嘘をつかれている・・・。たまたまそこにいただけでこちらは何のアプローチもしていないのに突然巻き込まれる、あるいは分け隔てなく親切に接したのに、度を超した行為を注意すると突然逆上し本性を発揮するケースなどもあるだろう。

幸運な人々は、長らく幸福で安心した日々を送っていると、こうした地雷が社会に存在しないかのように思い込んでしまう。そのような思い込みそのものが地雷を踏んでしまう罠である。地雷が好んで標的にするのは疑う事を知らない無防備な人々なのだから。

性善説で社会と接していると、『地雷』を見た目だけで判断して、普通の人と思い込んでしまう。相手の言う事を言葉通りに信じてしまう。そして『地雷』を自分の領域に招き入れる。気づいた時にはもう遅い。そんな信頼感の低い社会では、すべての他人を『地雷』と考えて、社会との間に高い塀を築いて生活しなければならない。

残念ながら、今の日本はそんな時代に突入したのだ。




これからの社会を安全に生き抜くには、何事も、そこに地雷が存在するという前提で行動するべきである。あらゆる人生計画の枝葉の全てに、『地雷』を避ける警戒心が含まれていなければ不完全なものである。

町で人に注意などをしてはいけない理由もこれで有る。注意したくなるような地雷は、目に見えているのだから静かに距離を取る事だ。

嘘を平気でついたり、自分の利益都合で態度を豹変させる人間、人を見下す事が習慣化しているような人物も気づいた時点で即、自分の領域から排除して関わらない事である。軽々しくそのような人間に話を合わせて会話を続けない事である。初動の時点ですぐに排除するのだ。

不必要に人間関係を広げてもいけないし、不必要に深入りすることも良くない、地雷に遭遇する確率を増やすだけである。リアルに人と接するビジネス(とくにサービス業)に携わる人々は本当にこれからの時代、大変である。

それでも防ぎきれないかもしれないが、少なくとも『地雷』に対して要塞のように鉄壁の防備を固めているという意思表示を見せておくことが何よりも重要である。そのことによって吸着地雷(モンスター)を忌避できるかもしれないし、自分自身も安心できる。

たとえ鉄壁の防備を固めつつも地雷にやられてしまったとしても、それに万全に備えて遭遇してしまったのであれば少なくとも「備えをしておけば良かった」という後悔はしなくて済む。

『毎日1個ニッチ的な新分野を発見する』を再開すべし 出発点につねに帰る

なにか一つの事でうまくいくと、それを単純にコピペして拡大するのがビジネスである。

ビジネスの出発点とは小学生が何を閃くのと同じぐらい何気ない事である。

いかに効率的にその単純な仕組みをコピペして拡大できるかで結果が大きく変わる。

ところが、コピペによる拡大がやや満足できる規模になると、そのコピペ作業をやめてしまうことが多々あり、そのままやめたままで現状維持すると、コピペ作業のやり方すら忘れてしまう事が多々ある。




3月から本格的に拡大してきた単純作業的な仕事だが・・・ほぼ自動運転のような状態になっている。
現状維持で十分回る状態になっている。ここ半月ほど『毎日1個ニッチ的な新分野を発見する』を行っていない。




過去の一発屋的ツボにはまった局面では、このままズルズルと初心に帰れず、徐々にパイを減らして最後には、なぜ一発屋的な状況が生まれたのかという出発点も忘れてしまいマンネリの中に埋没することが多かった。

出発点を忘れてしまうのならまだいいが、現状維持すら忘れてしまい、ほぼ不労所得のようになった状況すら平気で捨ててしまったりする。

不思議な事だが、人間は自分が発見したものの有難みを忘れてしまうのである。多くの成功者はこの出発点を忘れなかった人間だとも言える。大会社の社長が、誰よりも早く出社して、玄関先を掃除するなどするのはこの出発点を忘れないための儀式的な行為と言えるだろう。

今回はそうしない。

『毎日1個ニッチ的な新分野を発見する』をそろそろ再開しよう。




思えば『毎日1個ニッチ的な新分野を発見する』は、何らよって立つものが無い状態で自分の才能だけを頼りに15年間生活してきた私にとって、生涯に渡って生きる事を保証してくれる鉄壁の生活保障のようなものである。

毎日1時間程度を使ってこれさえ続けておけば、定期的に大きなチャンスに巡り合うため生活に困る事はほぼないだろう。

ゆえにどんなに忙しい日々になっても必ず継続しなければならない事なのだ。

これに加えて、毎日1枚の絵が描ければなお良いだろう。この2つの作業が継続できれば、自分に与えられた2つの才能をつねに磨き続けることができる。

2つの変化


①趣味に関して・・・ある魅力的な計画に着手し始めた

②『アホを相手にしない』を実践できている その効用も




①以前より、仕事に対しても好影響を及ぼしている趣味上のある計画に本格的に着手する事に決めた。
あまり夢中になりすぎて、仕事に害がないようにしないといけないな。
だが・・・その計画について夢想しながら日々を送るのは楽しい。

②『アホを相手にしない』を徹底できている。
その効用として感情エネルギーを浪費せず、心が無駄に汚されず気持ちよく日々を送れている。

伊高浩昭氏 チェ・ゲバラの人生を語る

YOUTUBEで伊高浩昭氏がチェ・ゲバラの人生を語っている講演の動画を見た。

伊高浩昭氏はカストロに何度も会っている人物で、ゲバラに対しての思い入れもすごいのだが、一方でわたしはこの講演動画を見て、ベルトリッチの映画「暗殺のオペラ」を思い起こさずにはいられなかった。

それは、英雄として永遠に名を残すために自らの悲劇的な死を演出する革命家の話である。

キューバ革命の場合、ゲバラの死の演出を行ったのはゲバラ自身というよりはカストロである。




明治維新の長州における奇兵隊
ナチスにおける突撃隊隊長エルンスト・レーム

意外な事にキューバ革命におけるゲバラは上記のような極に走ったがゆえに粛清される風雲児の位置づけである。
世間一般のイメージと違い、チェ・ゲバラは平和時代(社会の構築)に適応できなった戦争主義者なのだ。
戦争継続を通して理想を追求しようとするゲバラをキューバ国内に留まらせれば、必ずや不安定要因になる。

ゲバラがコンゴ内乱にソ連(キューバ)側の軍事顧問として参加した時点で、ゲバラとコンゴ内乱の白人傭兵(冒険的な戦争屋)の違いがわからなくなる。

金のためか、理念のためかの違いなのだろうが、唯物的に見れば同じである。

良い核兵器と悪い核兵器が無いのと同じで、良い戦闘と悪い戦闘は無い。

それらは単に『凶器』である。

戦争とは、物理的に勝利するための冷徹な手段であり、ゲバラはキューバ革命を通じて戦争でしか生きられない男=人間凶器となった。




カストロは、戦争屋となったゲバラをボリビアのジャングルへと冷酷に追い詰めてゆく。
※ボリビアはキューバに比べれば先進国であり、より良い社会を実現するために戦争・内乱を選択したがる人々などほとんどいなかった。

ボリビアのジャングルでゲバラは、実態は山賊とたいして変わらないドン・キホーテのような革命ゴッコに終始する。

カストロは、ゲバラの死と同時に、彼を革命の英雄としてプロパガンダ化する。
彫像が建てられ、ポスターが貼られたくさんの歌が作られる。

「多数のために自らを犠牲にした英雄」




純粋な革命家像を語ろうとした伊高浩昭氏の意図に反して、この講演から私が読み取るのはしょせんキューバ革命もある種の王朝の交代にすぎないという事だ。

新しい王朝は、前の王朝よりもマシな社会を実現して民衆を納得させる。それだけでは支配として不十分なため様々なプロパガンダで洗脳する。新しく作られた王朝には創世神話のようなものが必要となり、その役目を命賭けで果たしたのがゲバラなのだ。

昨今、キューバではゲバラ人気は薄れ、個人主義や私有財産の追求がはびこりはじめているという。
それは裏をかえせば、少数エリートの描いた絵(プロパガンダ)に愚民化された民衆が踊らされなくなったと言う事だろう。
ゲバラの幻想によって、江戸時代のような封建主義社会に閉じ込められていた民衆が、やっと人間として自由に生きられる時代を迎えようとしている。

むかしからゲバラや毛沢東等のプロパガンダの登場人物となった革命家には胡散臭いものを感じていたが、キューバ国民が一番そう思っているかもしれない。