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令和元年は武田教授の観点を取り入れる年に

武田邦彦教授が音声ブログ等で話している事は、平易な言葉で語られながら、実は深い洞察に基づいた考えであるがゆえにハッと気づかされることが多い。

今日聞いていてふと思ったのだが、武田教授のやり方(思考法)を取り入れれば、仕事と遊びで実現したいことの成果が2倍ぐらいにはなりそうな気がしてきたことだ。




何百と公開されている武田教授の人生論のごく一部を聞いただけでも、なるほどと思えることが多い。

いくつか例を挙げてみる。




「昨日は晴れ。今日は朝。」

昨日がたとえ土砂降りでさんざんな目にあった日であっても、昨日はとても晴れて気持ちが良く楽しい日であったと思い込む。
そして今日は、朝が清々しくて気持ちが良いと思う。

・デールカーネギーの本にも似たような章があるが、武田教授の考えのほうがより単純化されており直接的である。




目標はつねに後にある

たとえば大学に入りたいと思っても、東大に入るなどという具体的な目標は持たない。自分がやれるだけ勉強してその時に入れる大学に入ろうと思う。そろそろ家を建てたいと思ってもどんな家を建てたいか考えない。とにかく一生懸命貯金して貯金できた額に応じて建てられる家を建てようと思う。

私が見るところ、このような思考の本質にあるのは以下の2つである。

・自分が今この時にやるべき事だけに集中する。
・だが、その努力の末に得られる結果に期待したり気に病んだりせず、どんな結果であれ自分にふさわしいものとして受け入れるという気構えを持つ。



つまり世間に対して自分が働きかける事(勉強や貯金)には集中するが、世間がその対価として何を差し出すかについては「あーでもない・こーでもない」と妄想して思考エネルギーを無駄に浪費しないということだろうか?




努力家は不幸になる

努力家は真面目ゆえに自分に不向きな事を一生懸命やる。自分が苦手な事を克服することが意味があると思い込んでいる。たとえば苦手な英語の勉強をして努力して資格を取る。資格を取ったので英語の部署にまわされ、苦手な英語の仕事をやらされる。このように、誤った努力は人を不幸にするのである。

一方武田教授は、人間は20歳をすぎれば性質が変わらないものだと達観していたと言う。それは自分についてもそうだし、他人についてもそうなのだ。

 たとえば、タチの悪い同僚や上司がいれば、クズ人間を矯正しようとなどまったく思わず、むしろ彼らを褒めながら全力で距離を取って一切関わらないようにして、自分が居心地が良い部署へ、自分が向いていて楽しいと思う部署へと少しづつ寄って行って、自分の居心地の良い居場所を確保したのだと言う。




とくに最後の「努力家は不幸になる」は、なるほどと思える。

 私自身、努力家では全くなく、仕事自体は武田教授とまったく同じやり方で、やりたくない事から遠ざかり、付き合いたくない人々からも遠ざかり、自分に100%向いている事だけに注力していった。そうすることで本当にうまくゆく。15年ほど前、サラリーマン(SE)をやっていたが、サラリーマンそっちのけで自分に向いた副業に100%集中した結果、サラリーマンの給料の数倍ではきかないほどの成果が上がったのでフリーランスになりそれから一度も人に雇われずに暮らせている。

 一方で、自分には主に遊びや日常生活の面で「苦手な事を克服しよう」という部分が多少なりともあり、そのような努力は往々にして良い結果になっていない。20歳を過ぎれば人は変わらないと達観して苦手な事からは全力で距離を置いていればもっと良い結果になったのにと思えることが多いのだ。

運気を上げるためにやった事 ~ 過去数か月を振り返る。

このブログには、自分が自己啓発的な本や文章、動画などを見て学んだことを記録したり、ビジネスの上でひらめいた思考面のアイデアを書き記したりしている。

記録するのは時間がかかる。「ゲバラ日記」という本があるが、あれはボリビアのジャングルでの劣悪な戦闘の生活のさなかに時間を見つけてチェ・ゲバラがつづった日記である。どんな状況下でも、時間をかけてその時の考えを書き記しておくことは無駄ではない気がする。後で読み返してみたりできるし、記録する事で過ちを繰り返さない効果なども実際に上がっている。

より大きな効果は目に見えて仕事において成果が上がっている事だ。思い通りの成果が上がると次を考える。それがまた楽しい。




過去数か月においては以下の習慣を生活に取り入れた事が結構大きかった。
『単純労働』の部分のみに適用した習慣だったが成果が2倍~3倍に拡大した。

この習慣は誰かに聞いたわけではなく、ブログを書いていてふと思いついた事である。
やはり何か重要だと思ったことを書き記しておくことはアイデアの源泉になるようだ。

毎日何か新しいモノを発見せよ ~ マンネリ化しない

幸福になる世界観を持つ ~ 武田邦彦教授

武田邦彦教授は、実体験を通じて、人間が幸福になるために以下の法則を勇気を持って、自分自身に思い知らせることが必要だと言う。

『テニスの法則』 ・・・ 人はテニスの審判に対して自分に不利な判定が出たときは抗議するが、自分に有利な判定が出たときは気にかけない。得てして人は『人よりも自分は割を食っている、損をしている』と思いがちである。だが、人は自分の事をエコ贔屓して考えるため、『人よりも少し損している』ぐらいの感覚が、人と自分の関係が正常な状態である。

『三角形の法則』 ・・・あらゆる組織、集団は三角形の構造をしており、多くの人々は三角形の頂点に自分がいない事に不満を持つ。自分は不当に評価されていると思いがちである。たとえば平社員は自分が課長でない事を嘆き、課長は自分が部長で無い事を嘆き、部長は自分が社長で無い事を嘆く。だが、組織や集団に属する限り、自分は不当に低く評価されているというのが正常な状態である。なぜなら三角形の構造の集団の中でトップになるのはほんの一握りだからである。




『三角形の法則』に関しては、フリーランスをやっているとほぼ感じる事が無い。顧客がいる限りは不当には評価されていないわけで、そもそもどんな小さくてもビジネスが成り立っている限り「不当に評価されている」という感覚は生じないのである。

ただし、他の場面ではそのような感覚を今後持つことがあるかもしれない。その時には武田教授の法則を思い返そう。




 一方で『テニスの法則』のような、自分は割を食っているという感覚はしばしば持つことがある。

 そんな時に妻に言われるのは「世の中の人はたいへんなのよ。朝早く起きて電車に揺られて会社に行って、上司にこき使われて。ときどきは自分が恵まれている事を思い出したら?」なんて事も言われる。妻は現役営業マン時代は一日に車で三宮と上郡を3往復とか普通にしていたらしいから、ゴロゴロして遊びながら仕事をしている私の生活などリタイヤ生活にしか見えないだろう。

 同じことは姉にも言われる。姉からは仕事がな~んにも出来ないのに、目下だと思って姉にばかり仕事を押し付ける定年延長のオジサン社員(悪臭を放ち、いつもクチャクチャ音を立てて仕事中に雑談ばかりしているクズ職員)の愚痴をよく聞かされる。

 人間は良い判定がいくつ出ても気にかけず忘れてしまう。でも確率的に誰にでも起こり得る悪い判定の時だけ悲嘆にくれるのだ。悪い判定を平然とやり過ごす事が出来れば気分よく一日を過ごせる。

 この法則は勇気を持って受け入れて、自分の心の持ち様を改善せねばなるまい。

沈みゆくタイタニック号の中で・・・

最近、仕事をしながら某不動産コンサルタントの動画を聴いているが・・・

人口動態から言って、人口減少日本の不動産は3極化するそうだ。

①価値を維持する・もしくは上昇する 15%
②徐々に下落する 70%
③廃墟になる無価値化する 15%

この数値じたいに違和感はまったくなく・・・むしろ徐々に下落する不動産が70%もあるのか、廃墟化はたった15%なのかと思ってしまう。




こうした状況は、日本という国の今後の、ほとんどすべての分野についても言えるだろう。
たとえば仕事にしても会社にしても地域社会にしても、85%が多かれ少なかれ沈んでゆき、15%だけが救命ボートに乗れる。

平均的な目線で世間を見ると見誤る  に書いたが、こうした総崩れ状態の社会においては、平均的なものの見方、庶民と言う視点で生きる事は役に立たない。

人よりも目ざとく怜悧に生きないと沈んでしまうのだ。



武田邦彦氏は、こうした社会を生き抜く方法として、老後という概念を捨てるべきだと言う。

昭和の日本人のモデルケース:50歳まで働き、10年遊んで、最後の5年で死ぬ準備をして70歳ぐらいで亡くなる。

こうした昭和の古いモデルケースに対して武田邦彦氏は以下のような生き方を説く。

現代日本人のモデルケース:50歳で子育てやローン等を終え、残り50歳 → 100歳までが老後。
※人生の半分が老後など本来ならありえない。



50歳→60歳:蓄える期間。体力を蓄え、お金を蓄え、恩を蓄える。
60歳→90歳:一日5時間程度は労働にあて経済的に自立した生活をする
90歳→100歳:国の福祉に頼る期間




武田邦彦氏は、このように考えて生きる『べき』と言うが・・・むしろ、このような考えを持っていないと生きてゆけなくなる社会になってくると思った方が良いのではないか。


『住宅コスト』の元を取る方法

「元が取れる暮らし方」に対するニーズのつづき

資産価値に対するリテラシーのあるコミュニティとそうでないコミュニティ

アベノミクス以降、世の中は『住』についても"資産価値"に重点をおく人は増えている。"資産価値"に重点を置くとはすなわち、最初に投下した資金の元を取ると言う事に他ならない。

マトモなマンションなどは住民が相互に資産価値を高める事を共通の価値観にしているし、賢明なオーナーによって再生された別荘地なども「資産価値の向上」を目標に管理運営を行っている。こうした場所は、10年20年暮らしても快適だし、資産価値も落ちないので実質的に家賃ゼロで住める。

一方で、私が住む別荘地のような、物件の資産価値の事など何も考えないレベルの低い素人管理の底辺別荘地や、自暴自棄的な事がまかりとおる民度の低いコミュニティにおいては『資産価値』などという概念が存在せず、荒らし放題・荒れ放題の資産価値マイナスのハチャメチャな場所になる事が運命づけられている。

大都市近郊の千里ニュータウンにある実家に帰るたびに思うが、ここ10年ほどで急速に格差が開いているなと感じる。千里ニュータウンのような綺麗な場所はますます綺麗になる。



賢明な人はタダで住み、そうでない人はコストを払う

 少子高齢化で、日本全国の不動産価値が平均的に上昇することがほぼ絶望的になった状況下で、20年30年後も不動産価値を保てる物件などごくわずかである。だが、確実にそうした物件は存在する。そうした物件は、資産価値に対するリテラシーの高い人々に探索され購入されるだろう。

 結果的に元が取れて『住』にコストを払わなくても良い人と、様々な形でコストを払わされる人々の差は大きい。

 たとえば、4000万円の価値が落ちない不動産を所有していれば、その不動産に住みながら老後資金として銀行から4000万を借りて死ぬまで返さなくてもいいと言う事が可能(リバースモーゲージ)だが、こうした形の世渡り術は欧米の中流層では一般的だが、日本でも増えてきている。今後、政府の新政策下でさらに盛んになってゆくだろう。

 賢い人々はますます賢く生き、そうでない人々は死ぬまで『住』にコストを払い続け苦労し続ける世の中なのだ。



『住宅コスト』の元を取れない人に出来る事は何か?

 不幸にも播磨自然高原という"地雷付き別荘地"に物件を買った事が資産面では多かれ少なかれ悪影響を及ぼす事が明白になった時、最初はそのことに憤慨したが、「ではどうすれば状況をマシなものにできるのか?」を考えすぐさま実行した。

 そして、治安対策と妻のショップの運営を考えて外構工事をしたし、以前よりも夫婦で協力するようになった。より大きいことは本業以外にミニビジネスを生み出す事を楽しみにし、日課にするようにもなった事だ。これにより収入源が多様化した。

 稼ぐという姿勢を以前よりも明確に持って生活する限り、住宅コストなどさして大きなコストではない。そして、結果的に「この山荘を購入して少しの苦労は経験したけど元を取った」と今は自信を持って言えるようになった。

 以前と変わらず山荘で自由気ままに暮らしているだけだが、頭の片隅に『どんな形であれ元を取ってやろう』と思い続け実行し続ける事が出来れば、結果が大きく異なってくる。



『住宅コスト』の元を取ることが出来ない人の第三の道

結論:不幸にも『住宅コスト』の元を取る事ができなかった人にも第三の道がある。

・自分の状況をより良くするために何ができるか考え実行する
・失敗をその後の人生に教訓として生かして、二度と腐食性の高い『腐れ負動産』に手を出さない事を肝に銘じる

この事が実行出来れば、住宅コストなどさしたるコストではない。
賃貸などでも「稼ぐ」という目線で場所を考えて借りれば、その場所に住むことによる副収入が発生し、家賃は実質タダになる。

元を取るには、「元を取ってやろう」という意識を持つ事が何よりも重要である。